でんこの元ネタ
■No.120 新藤原ぼたん(Shinfujiwara Botan)
■タイプ:サポーター
■誕生日:11月15日
■出身駅: 野岩鉄道 会津鬼怒川線 新藤原駅(栃木)
こちらは鬼怒川沿いを走る国道121号線の、
鬼怒川公園駅から北に600mほど進んだ付近の光景です。
箱根や熱海と並んで「東京の奥座敷」と呼ばれた鬼怒川温泉郷の北端にあたる場所で
国道脇にご覧の鬼怒川温泉の標柱が建っています。
この付近は鬼怒川左岸(東側)に国道121号線と東武鬼怒川線が並走しており、
国道から眼下には鬼怒川の河原やキャンプ場などが眺められます。
鬼怒川温泉の標柱から北に200mほど進むと東武鬼怒川線の第45号踏切があります。
この45号踏切から西側へはご覧の「小原通り」と書かれた集落の道が分岐していますが、
こちらが会津西街道の旧道であり小原沢を渡河した街道は今市へと至っていました。
会津西街道はこの踏切で現在の国道121号線へと合流し、
ここから北は国道が会津西街道のルートを進んでいます。
街道跡である国道121号線を北へと進みます。
右側には東武鬼怒川線の線路が並んで並走しています。
河と国道、そして鉄道が並ぶ光景はこの付近が狭隘な渓谷であることを示しています。
そしてこの街道の途中の線路脇にはご覧の石仏が集まった一角があります。
この石仏群は日光市指定の有形民族文化財である「勝善碑ならびに馬頭観世音碑群」です。
これらの石仏は会津西街道の往来の荷物輸送が主な収入源だった藤原の人々が、
難所で亡くなった馬の供養の為に死んだ馬の捨て場であった鬼怒川の断崖近くに
一頭ごとに建てた供養碑なのだそうです。
北に進みカーブを曲がると民家が見え始めます。
会津西街道の藤原宿のあった盆地の南端付近となります。
スキーのレンタル店の前を過ぎると国道はまもなく駅付近へと差しかかります。
ご覧のT字路が駅への入口となる交差点であり、
国道からは50m先の駅を見ることができます。
切り返して国道を南へと振り返って駅前交差点側から見た光景。
「鯉のあらい」の看板のある川の脇に
見落としそうな細い道が枝分かれしています。
道を進むと線路の下をくぐるご覧の地下道があります。
地下道を通り抜けると反対の駅東側へと出る事ができます。
駅前のT字路へと戻って国道を北へと進むとすぐに藤原バス停があります。
バス停の先を北へと進むとまもなく右手にゆるやかなカーブがあります。
駅前交差点から90mほどのこのカーブには横断歩道があり、その東側には
ご覧の「藤原デイサービスななほし」という施設があります。
このデイサービスのある場所がかつての会津西街道藤原宿の本陣跡となります。
代々藤原の名主を務めた星家があった場所が本陣だったのだそうです。
その本陣跡の国道を挟んだ向かいにあるのがこちらの清隆寺の入口です。
かつて鎌倉時代の1265年(文永2年)に日蓮上人が一週間藤原宿本陣に滞在したことから
その時の藤原の名主の星家が開基檀方となって1288年(正応元年)に開かれた寺です。
会津西街道である国道121号線の、かつての藤原宿のあった付近の光景。
現在でも比較的民家や店舗が並ぶ集落となっています。
街道沿いの藤原の集落の光景。
国道の西側には日光を開山した勝道上人が開いたとされる慈眼寺があり
いくつもの市指定文化財があります。この寺は日光中興の祖とされる天海大僧正(慈眼大師)も
会津西街道を往来する際に好んで立ち寄ったとされる由緒ある寺です。
慈眼寺、十二神社の前を通過すると宿場街の北方で
国道と県道が分岐しているT字路があり青看板の標識があります。
こちらが国道121号線から県道63号藤原宇都宮線が分岐している交差点です。
この交差点が県道63号線の起点となっています。
県道との分岐の交差点からさらに北へ。
会津西街道の標識と国道121号と352号の併用区間であることを示す標識があります。
坂を上って国道を進むとまもなく左へのカーブに。
駅前の交差点からはおよそ900mといった距離となります。
このカーブ脇にはそば店の大黒庵とハイセーコー食堂があります。
ハイセーコー食堂の方は店主がハイセーコーで勝ったお金で作った店だからなのだとか。
カーブからさらに北へと進むとすぐに龍王峡大橋の北詰め付近となり
龍王峡ライン(県道19号藤原塩原線、旧日塩有料道路)の高架を国道がくぐっています。
この高架をくぐると野岩鉄道の龍王峡駅まではおよそ600mほどとなります。
切り返して国道121号線の坂を下り南の駅方向へと戻ります。
T字路から県道63号藤原宇都宮線に入って東へ。
道は塩屋町を経て宇都宮へと通じており主要地方道に指定されています。
鬼怒川の支流の堰場川に流れ込む七久保沢の橋付近。
かつての藤原の集落はこの七久保沢付近にあったそうです。
切り返して国道121号線の会津西街道へと戻ります。
国道121号線の旧藤原宿の街中を駅方向へと南下。
宿場の中心地であった付近の街道を下ります。
旧本陣跡の前を通り抜けて駅前の交差点へ。
T字路を東に入るとすぐに左手に道はカーブを描いており、
50mほど進んだところに駅舎への入口があります。
こちらが新藤原駅の駅舎の外観です。
駅は1919年(大正8年)12月28日に下野軌道藤原駅として開業したもので
現在の場所には1922年(大正11年)に駅が移設されました。
1943年(昭和18年)に東武鉄道の駅となり、1986年(昭和61年)の野岩鉄道の開業で
駅管理も野岩鉄道へと移管されています。
切り返して駅舎側から見た国道側への光景。
駅前にあるポストと案内地図。地図には龍王峡の案内が書かれている様ですが
ご覧の通りすっかり退色してしまって読み取れなくなっていました。
この看板のある駅舎の向かいの家は、現在の駅舎に改築された頃の写真を見ると
商店として営業していましたが現在では店は廃業している様で、
建物は変わらないものの普通の民家となっています。
ポストと看板の向かい側の、駅舎の南側には1番線線路脇の駐車スペースがありますが
この場所が1986年(昭和61年)に現駅舎が建つ前の東武時代の木造駅舎があった場所です。
当時の写真を見ると駐車スペース付近が旧1番線ホーム跡であり
その前の現在道路となっている場所にかつての駅舎が建っていた様です。
駅舎前に隣接する道路の様子です。
西側に設けられた野岩鉄道の職員駐車場。
道の突き当りはちょうど藤原宿本陣跡のデイサービス施設の建物の裏となります。
つまり新藤原駅は藤原宿本陣跡の真裏に作られているという事です。
突き当りを反対の東側へと曲がるとすぐに踏切となります。
この新藤原駅北側の踏切は野岩鉄道の新藤原踏切です。
かつて鉄建公団の野岩線として作られた野岩鉄道は高規格で線路が敷かれており、
駅構内の構内踏切を除くとこちらが野岩鉄道唯一の踏切となります。
反対側から切り返して見た踏切。
踏切の東側には線路と並走した道が南北に走っています。
まずは線路に沿って南側へ。
ホームからも見える駅裏の交差点です。
駅南の地下道の出口もこちらの交差点へと通じています。
南側には関係者以外立入禁止の看板の出た線路沿いの道があって
奥には野岩鉄道の本社の建物と車両基地があります。
交差点脇の地下道への入口の通路。
交差点の東側は細めの坂道となっていて、日光市の藤原運動場や
国道交通省日光砂防事務所藤原出張所などへと通じています。
坂から見た新藤原駅の俯瞰。
ホームに沿って北の踏切方向へと戻ります。
踏切を過ぎてさらに線路沿いの道を北へ。
駅から120m北にある、野岩鉄道に入って最初のトンネルである
藤原トンネルの入口が見えます。
トンネルの入口上から見た新藤原駅方面の光景。
切り返して駅方向の踏切へと戻ります。
踏切から駅舎の入口へ。
新藤原駅の駅舎前付近の道路の様子です。
先代駅舎跡である駐車場の南端の先には
ご覧の東武鉄道の新藤原乗務員詰所の建物があります。
新藤原駅は東武鉄道と野岩鉄道の境界駅で、東武の乗務員の乗務の北限の駅となるので
折り返しの待ち時間の為に東武側ホームの脇に詰所が設けられています。
それでは駅舎と駅施設について見てみたいと思います。
東武鉄道の北限の駅としてながらく営業をしてきた駅ですが、
1986年(昭和61年)10月に野岩鉄道が開業したことによって駅管理も
東武鉄道から野岩鉄道へと移管されています。
現在の駅舎も野岩鉄道移管時に建てられた野岩鉄道の設備となっています。
駅舎前の階段脇に作られたバリアフリーのスロープ。
入口前のスペースの様子です。木製のベンチとプランターが置かれています。
ホーム側との柵には扉がついており業務での通り抜けが可能です。
駅舎の中の光景です。有人窓口があり改札も駅員が行っています。
自動券売機も置かれておらず切符は窓口での購入となります。
待合室として改札前にベンチが置かれています。
自動改札機も置かれていませんが、東武鉄道の北限駅であるため
ご覧の通り簡易ICカード改札機が置かれているので
当駅以南の乗車であればICカードの使用が可能です。
改札付近の様子。ホーム側には出場用のICカード改札機があります。
駅構内側の改札前を南北に通る連絡通路。
改札を入って右手の南側へと連絡通路を進むとまもなく
ホームへのスロープがあります。
こちらが1、2番線ホームとなります。東武鬼怒川線の終着駅である当駅で
東武鉄道の列車が発着するホームとなっており、当駅折り返し列車は1番線、
野岩鉄道へと直通列車は2番線を使用する事となります。
野岩鉄道が開通する前の単式の東武旧1番線ホームは、
現在の1番線線路の西側にありました。今使われている島式のホームは
野岩鉄道の開業時に駅舎と共に新しく作られたものとなります。
ホームの上には全面に屋根が設けられていいます。
下今市方で2番線はホームが切り欠きとなっています。
1番線ホーム側の下今市方の南端の様子です。
6両編成の特急列車が停まれる様にホーム有効長が伸ばされています。
切り返して会津高原尾瀬口方の北へと見たホームの様子。
このホームの駅名標や表示は東武鉄道の仕様となっています。
中ほどで隣の野岩鉄道ホームの南端と並びます。
2両がデフォルトの野岩鉄道ホームと比べて
こちらの東武ホームの有効長の長さが際立ちます。
1番線の線路の終端。野岩鉄道開通前は新藤原駅はこちらの線路のみの駅でした。
現在は車止めの前に駅舎がありホームは反対の線路東側となっています。
2番線ホーム側は駅舎前にもホームが伸ばされており、
隣の野岩鉄道ホームと北端の位置が揃えられています。
切り返して再び南へと進みホームの入口へと戻ります。
1、2番線ホームから連絡通路を戻って改札前へ。
改札前から今度は左手北側へと連絡通路を進みます。
駅舎と野岩鉄道ホームとを連絡する構内踏切。
踏切を渡ると右に通路が曲がっており、こちらもホームへのスロープとなります。
こちらが島式の3、4番線ホームです。
1986年(昭和61年)の野岩鉄道会津鬼怒川線の開業で作られたホームで
当駅から北の野岩鉄道へと乗り入れる列車が発着するホームとなります。
西側の3番線の線路は、となりのホームの2番線と線路が共有で使用されています。
ですので当駅は島式2面で線路が3線となっています。
ホーム南端の下今市方の光景。野岩鉄道のホームとなるので
隣の東武ホームに比べて有効長が短いのが分かります。
ホーム南端の先に置かれた勾配標。
切り返して会津高原尾瀬口方の北へ。
今は使われていない売店跡がホームに残っています。
北端の会津高原尾瀬口方。ホームの出入り口は連絡通路のあるこちらの北側のみです。
■モデル車両: 東武鉄道 6050系電車
東武6050系電車は野岩鉄道会津鬼怒川線が開業する1985年(昭和60年)に
野岩鉄道と東武鉄道間の直通運転を行う為に作られた車両です。
元々は国鉄(当時)と東武日光線の競合による競争で、国鉄の準急形電車投入に対抗する為
居住性とスピードを兼ね備えた準急形車両として
1964年(昭和39年)から新製投入された東武6000系が元となっています。
登場当時は国鉄車両に対抗できるスペックの高い6000系でしたが、
さすがに登場から20年が経過するとまわりの車両も進化し車両設備も陳腐化してきます。
そこに1986年(昭和61年)10月の野岩鉄道開業による新藤原駅以北の開通によって
トンネルが大部分を閉める会津鬼怒川線への直通運転に備えた車両整備の必要もあり、
ちょうど車両更新の時期を迎えていた6000系を車体更新の上で
一部部品を流用した改造工事を行う事となりました。
こうして22編成44両あった東武6000系はその全車両が改造更新されており、
1985年(昭和60年)10月から翌1986年(昭和61年)10月までで全ての車両が
東武6050系として作り変えられています。
改造工事を終えた東武6050系の最初の編成である6151Fが運用に就いたのは
1985年(昭和60年)11月15日のことでした。
駅メモのでんこである新藤原ぼたんの誕生日が11月15日に設定されており、
これは東武6050系が更新後に営業運転を開始した日と同一となっています。
以後6000系は次々と短期間に急ピッチで6050系への改造工事が進められており、
1年あまりで編成全てが更新されて東武日光線と東武鬼怒川線の快速・区間快速を中心に
運用をされ野岩鉄道会津鬼怒川線への直通運転を行っています。
また1990年(平成2年)の会津鉄道の会津田島以南の電化後は
会津鉄道会津線へも直通運転が行われています。
東武6000系の改造によって22編成44両が作られた6050系ですが
野岩鉄道開業に際して1985年(昭和60年)と1986年(昭和61年)に1編成づつ、
1988年(昭和63年)には直通乗り入れ電車の車種統一などで8編成が、
会津鉄道電化の1990年(平成2年)には会津鉄道所有車の200番台が1編成
それぞれ完全新造されて増備されています。
【上写真:野岩鉄道6050系100番台】
6050系新造車のうち3編成が100番台として野岩鉄道に、
1編成が200番台として会津鉄道へとそれぞれ東武鉄道から譲渡されており、
野岩鉄道6050系100番台、会津鉄道6050系200番台としてそれぞれ運用されています。
6050系の更新車両と新造車は台車の形式が違うのだそうですが、
その他細かい差異はあれどほぼ同一の車両であると言って差支えは無いでしょう。
東武6050系の車体のカラーリングはジャスミンホワイト( )をベース色としており、
帯色にパープルルビーレッド( )とサニーコーラルオレンジ( )を配しています。
駅メモのでんこの新藤原ぼたんの衣装を見ると配色が同じであることが良く分かります。
この6050系の配色はその後東武100系スペーシアに採用されるなど
東武鉄道の日光方面優等列車のイメージカラーとなっています。
その後6050系は2017年(平成29年)4月のダイヤ改正で快速、区間快速と
浅草━新栃木間の区間急行が廃止された事で
東武日光線南栗橋駅より南での運用が無くなりました。
また2022年(令和4年)3月のダイヤ改正では
東武鉄道所有の6050系の旅客運用が全廃となり、
会津鉄道所有61201Fと野岩鉄道61101Fも廃車となった事から
旅客運用をされている6050系は野岩鉄道の2編成のみとなりました。
2022年(令和4年)10月に駅メモで6050系をモチーフとした新藤原ぼたんが登場しましたが、
キャラのリリース時に運用されている6050系は野岩鉄道6050系100番台の
鬼怒川温泉駅━会津高原尾瀬口駅間を走る2編成のみとなっています。
【上動画はクリックで再生します。】
こちらは新藤原駅へと入線する6050系の動画です。
以下ではこの6050系について各車両について見ていきたいと思います。
鬼怒川温泉方に編成されるモハ6150形です。
モ(動力車)ハ(普通車)となりモーターを搭載している普通車両となります。
編成略記号ではMcでM(動力車)c(制御車)となり、動力のある運転台付き車両となります。
パンタグラフは両側車端の屋根上に1基づつ計2基が搭載されています。
このうり運転台側の1基は霜取り用パンタグラフです。
寒冷地を走る東武日光線や野岩鉄道では冬季に架線に雪や霜が付着する為
進行方向前側のパンタグラフで霜を落とし後方のパンタで給電を行っています。
新藤原ぼたんの背中には車両と同じ下枠交差式のひし形パンタグラフがあります。
またカメラの三脚を見ると集電シューと同じ形状であることが分かります。
鬼怒川温泉方車端の運転台後部付近の様子です。
運転台の仕切り壁の背後には両側に2人掛けロングシートがあります。
そのロングシートの横の乗降扉付近。車両は片側2ドアのセミクロスシート車両となっており
扉の両側の座席がロングシートとなります。
車内客室の様子。扉間の座席はご覧の通りボックスシートとなっています。
会津高原尾瀬口方の連結部付近。こちらも車端両側に2人掛けロングシートがありますが
優先座席となっていてモケットの色がブルーグレーとなっています。
つり革も優先座席付近だけ三角の黄色のものに。
切り返して見た車内客室。
二両編成の会津高原尾瀬口方に編成されているクハ6250形です。
ク(付随車)ハ(普通車)で動力を持たない客車車両となります。
編成略記号ではTcでT(付随車)c(制御車)ですので
運転台があり動力の無い制御車両という意味となります。
会津高原尾瀬口方の車端運転台後方付近。
こちらは運転台の扉の上に設置されている行先表示器です。
同じ編成で2両ごとに行き先が異なる運用がされることも多かった為
乗客の誤乗防止の為に大きく目立つ回転幕式の表示器が設けられていました。
運転台の中の様子。貫通扉付近に見えるステップは非常用の梯子で、
大半をトンネル区間が占める野岩鉄道を走る事から備えられているものです。
車内客室の光景です。セミクロスシート車両であるのは同様です。
鬼怒川温泉方の車端付近。乗降デッキの先の
連結部前東側には和式トイレが設置されています。
トイレの向かい側は車いすなどに対応のフリースペースが。
妻側の壁にはくずもの入れが設けられています。
切り返して見た車内。車端にトイレがあるのでクハ6250形の優先座席は
ご覧の通り後部乗降扉の運転台側の脇にあります。
会津高原尾瀬口方へと向かって運転台方向へと見た車内。
ボックスシート席は1525mm間隔で配置されており
作られた当時としては広めとなっています。
グループ利用を想定した折り畳みテーブルが窓側にあり
テーブル脇のボタンを押して開閉し使用することができます。
新藤原ぼたんのリリース時には野岩鉄道6050系100番台しか営業運転をしておらず
上の詳細写真も野岩鉄道車のものですので、参考として2017年(平成29年)に撮っていた
東武鉄道6050系の車内の様子の写真も載せておきます。
ご覧の通り基本的には外観は変わりません。
この6050系という電車は元の種車の東武6000系から数えると2022年現在で58年、
東武6050系へと改修されてからでも37年が経過している車両です。
ですので6050系をモチーフとしている駅メモのでんこの新藤原ぼたんにも
各所で「パーツが古い」といった類の設定が見受けられます。
そして唯一6050系が残る状況となった野岩鉄道では
2022年(令和4年)8月より6050系改修費用のクラウドファンディングを実施。
資金の調達に成功しており、2023年(令和5年)3月に改修を予定しています。
これによって6050系には観光列車的な改修がされるという事となり、
登場以来の姿を保っている6050系は2022年度中までしか
見られないという公算が大きいということになります。
もちろん今後もしばらくは野岩鉄道で6050系を見ることはできるでしょうが
原型の6050系を見ることができる期間は残り僅かであるという事は念頭に置くべきでしょう。
ここからは余談となりますが、6050系モチーフのでんこが登場すると分かった当初は
「とうとう東武鉄道のでんこが登場するのか」と思いました。
しかし、
■東武6050系は野岩鉄道開業の為に生み出された形式
■リリース時に走る6050系は野岩鉄道のもののみ
■苗字の由来である新藤原駅は野岩鉄道管理駅
■開業以来野岩鉄道が保有する車両は6050系のみ
といった点を考え、また駅メモのでんこには第三セクター由来のものが多い状況などから
新藤原ぼたんは野岩鉄道由来のでんこであると推測するに至りました。
ですので駅については野岩鉄道の駅として扱っています。
そして車両については
■野岩鉄道6050系も元は東武鉄道からの譲渡車である事
■東武鉄道との関係性(地理的なものや営業的なもの)が
6050系が野岩鉄道で開業時に採用された理由と考えられる事
■誕生日の11月15日は東武での営業運転開始日(野岩鉄道はまだ無かった)
といった観点もあり、
また野岩鉄道6050系100番台も東武6050系の1形式カテゴリーであると考え
大きなくくりで「東武6050系」を車両の元ネタと考えるのが合理的かと思った次第です。
無論公式な発表はされていないので、あくまで推測でしかありません。
後日に公式発表され異なっていた場合には修正をしたいと思います。
では。
【写真撮影:2022年10月ほか】
■No.120 新藤原ぼたん(Shinfujiwara Botan)
■タイプ:サポーター
■誕生日:11月15日
■出身駅: 野岩鉄道 会津鬼怒川線 新藤原駅(栃木)
こちらは鬼怒川沿いを走る国道121号線の、
鬼怒川公園駅から北に600mほど進んだ付近の光景です。
箱根や熱海と並んで「東京の奥座敷」と呼ばれた鬼怒川温泉郷の北端にあたる場所で
国道脇にご覧の鬼怒川温泉の標柱が建っています。
この付近は鬼怒川左岸(東側)に国道121号線と東武鬼怒川線が並走しており、
国道から眼下には鬼怒川の河原やキャンプ場などが眺められます。
鬼怒川温泉の標柱から北に200mほど進むと東武鬼怒川線の第45号踏切があります。
この45号踏切から西側へはご覧の「小原通り」と書かれた集落の道が分岐していますが、
こちらが会津西街道の旧道であり小原沢を渡河した街道は今市へと至っていました。
会津西街道はこの踏切で現在の国道121号線へと合流し、
ここから北は国道が会津西街道のルートを進んでいます。
街道跡である国道121号線を北へと進みます。
右側には東武鬼怒川線の線路が並んで並走しています。
河と国道、そして鉄道が並ぶ光景はこの付近が狭隘な渓谷であることを示しています。
そしてこの街道の途中の線路脇にはご覧の石仏が集まった一角があります。
この石仏群は日光市指定の有形民族文化財である「勝善碑ならびに馬頭観世音碑群」です。
これらの石仏は会津西街道の往来の荷物輸送が主な収入源だった藤原の人々が、
難所で亡くなった馬の供養の為に死んだ馬の捨て場であった鬼怒川の断崖近くに
一頭ごとに建てた供養碑なのだそうです。
北に進みカーブを曲がると民家が見え始めます。
会津西街道の藤原宿のあった盆地の南端付近となります。
スキーのレンタル店の前を過ぎると国道はまもなく駅付近へと差しかかります。
ご覧のT字路が駅への入口となる交差点であり、
国道からは50m先の駅を見ることができます。
切り返して国道を南へと振り返って駅前交差点側から見た光景。
「鯉のあらい」の看板のある川の脇に
見落としそうな細い道が枝分かれしています。
道を進むと線路の下をくぐるご覧の地下道があります。
地下道を通り抜けると反対の駅東側へと出る事ができます。
駅前のT字路へと戻って国道を北へと進むとすぐに藤原バス停があります。
バス停の先を北へと進むとまもなく右手にゆるやかなカーブがあります。
駅前交差点から90mほどのこのカーブには横断歩道があり、その東側には
ご覧の「藤原デイサービスななほし」という施設があります。
このデイサービスのある場所がかつての会津西街道藤原宿の本陣跡となります。
代々藤原の名主を務めた星家があった場所が本陣だったのだそうです。
その本陣跡の国道を挟んだ向かいにあるのがこちらの清隆寺の入口です。
かつて鎌倉時代の1265年(文永2年)に日蓮上人が一週間藤原宿本陣に滞在したことから
その時の藤原の名主の星家が開基檀方となって1288年(正応元年)に開かれた寺です。
会津西街道である国道121号線の、かつての藤原宿のあった付近の光景。
現在でも比較的民家や店舗が並ぶ集落となっています。
街道沿いの藤原の集落の光景。
国道の西側には日光を開山した勝道上人が開いたとされる慈眼寺があり
いくつもの市指定文化財があります。この寺は日光中興の祖とされる天海大僧正(慈眼大師)も
会津西街道を往来する際に好んで立ち寄ったとされる由緒ある寺です。
慈眼寺、十二神社の前を通過すると宿場街の北方で
国道と県道が分岐しているT字路があり青看板の標識があります。
こちらが国道121号線から県道63号藤原宇都宮線が分岐している交差点です。
この交差点が県道63号線の起点となっています。
県道との分岐の交差点からさらに北へ。
会津西街道の標識と国道121号と352号の併用区間であることを示す標識があります。
坂を上って国道を進むとまもなく左へのカーブに。
駅前の交差点からはおよそ900mといった距離となります。
このカーブ脇にはそば店の大黒庵とハイセーコー食堂があります。
ハイセーコー食堂の方は店主がハイセーコーで勝ったお金で作った店だからなのだとか。
カーブからさらに北へと進むとすぐに龍王峡大橋の北詰め付近となり
龍王峡ライン(県道19号藤原塩原線、旧日塩有料道路)の高架を国道がくぐっています。
この高架をくぐると野岩鉄道の龍王峡駅まではおよそ600mほどとなります。
切り返して国道121号線の坂を下り南の駅方向へと戻ります。
T字路から県道63号藤原宇都宮線に入って東へ。
道は塩屋町を経て宇都宮へと通じており主要地方道に指定されています。
鬼怒川の支流の堰場川に流れ込む七久保沢の橋付近。
かつての藤原の集落はこの七久保沢付近にあったそうです。
切り返して国道121号線の会津西街道へと戻ります。
国道121号線の旧藤原宿の街中を駅方向へと南下。
宿場の中心地であった付近の街道を下ります。
旧本陣跡の前を通り抜けて駅前の交差点へ。
T字路を東に入るとすぐに左手に道はカーブを描いており、
50mほど進んだところに駅舎への入口があります。
こちらが新藤原駅の駅舎の外観です。
駅は1919年(大正8年)12月28日に下野軌道藤原駅として開業したもので
現在の場所には1922年(大正11年)に駅が移設されました。
1943年(昭和18年)に東武鉄道の駅となり、1986年(昭和61年)の野岩鉄道の開業で
駅管理も野岩鉄道へと移管されています。
切り返して駅舎側から見た国道側への光景。
駅前にあるポストと案内地図。地図には龍王峡の案内が書かれている様ですが
ご覧の通りすっかり退色してしまって読み取れなくなっていました。
この看板のある駅舎の向かいの家は、現在の駅舎に改築された頃の写真を見ると
商店として営業していましたが現在では店は廃業している様で、
建物は変わらないものの普通の民家となっています。
ポストと看板の向かい側の、駅舎の南側には1番線線路脇の駐車スペースがありますが
この場所が1986年(昭和61年)に現駅舎が建つ前の東武時代の木造駅舎があった場所です。
当時の写真を見ると駐車スペース付近が旧1番線ホーム跡であり
その前の現在道路となっている場所にかつての駅舎が建っていた様です。
駅舎前に隣接する道路の様子です。
西側に設けられた野岩鉄道の職員駐車場。
道の突き当りはちょうど藤原宿本陣跡のデイサービス施設の建物の裏となります。
つまり新藤原駅は藤原宿本陣跡の真裏に作られているという事です。
突き当りを反対の東側へと曲がるとすぐに踏切となります。
この新藤原駅北側の踏切は野岩鉄道の新藤原踏切です。
かつて鉄建公団の野岩線として作られた野岩鉄道は高規格で線路が敷かれており、
駅構内の構内踏切を除くとこちらが野岩鉄道唯一の踏切となります。
反対側から切り返して見た踏切。
踏切の東側には線路と並走した道が南北に走っています。
まずは線路に沿って南側へ。
ホームからも見える駅裏の交差点です。
駅南の地下道の出口もこちらの交差点へと通じています。
南側には関係者以外立入禁止の看板の出た線路沿いの道があって
奥には野岩鉄道の本社の建物と車両基地があります。
交差点脇の地下道への入口の通路。
交差点の東側は細めの坂道となっていて、日光市の藤原運動場や
国道交通省日光砂防事務所藤原出張所などへと通じています。
坂から見た新藤原駅の俯瞰。
ホームに沿って北の踏切方向へと戻ります。
踏切を過ぎてさらに線路沿いの道を北へ。
駅から120m北にある、野岩鉄道に入って最初のトンネルである
藤原トンネルの入口が見えます。
トンネルの入口上から見た新藤原駅方面の光景。
切り返して駅方向の踏切へと戻ります。
踏切から駅舎の入口へ。
新藤原駅の駅舎前付近の道路の様子です。
先代駅舎跡である駐車場の南端の先には
ご覧の東武鉄道の新藤原乗務員詰所の建物があります。
新藤原駅は東武鉄道と野岩鉄道の境界駅で、東武の乗務員の乗務の北限の駅となるので
折り返しの待ち時間の為に東武側ホームの脇に詰所が設けられています。
それでは駅舎と駅施設について見てみたいと思います。
東武鉄道の北限の駅としてながらく営業をしてきた駅ですが、
1986年(昭和61年)10月に野岩鉄道が開業したことによって駅管理も
東武鉄道から野岩鉄道へと移管されています。
現在の駅舎も野岩鉄道移管時に建てられた野岩鉄道の設備となっています。
駅舎前の階段脇に作られたバリアフリーのスロープ。
入口前のスペースの様子です。木製のベンチとプランターが置かれています。
ホーム側との柵には扉がついており業務での通り抜けが可能です。
駅舎の中の光景です。有人窓口があり改札も駅員が行っています。
自動券売機も置かれておらず切符は窓口での購入となります。
待合室として改札前にベンチが置かれています。
自動改札機も置かれていませんが、東武鉄道の北限駅であるため
ご覧の通り簡易ICカード改札機が置かれているので
当駅以南の乗車であればICカードの使用が可能です。
改札付近の様子。ホーム側には出場用のICカード改札機があります。
駅構内側の改札前を南北に通る連絡通路。
改札を入って右手の南側へと連絡通路を進むとまもなく
ホームへのスロープがあります。
こちらが1、2番線ホームとなります。東武鬼怒川線の終着駅である当駅で
東武鉄道の列車が発着するホームとなっており、当駅折り返し列車は1番線、
野岩鉄道へと直通列車は2番線を使用する事となります。
野岩鉄道が開通する前の単式の東武旧1番線ホームは、
現在の1番線線路の西側にありました。今使われている島式のホームは
野岩鉄道の開業時に駅舎と共に新しく作られたものとなります。
ホームの上には全面に屋根が設けられていいます。
下今市方で2番線はホームが切り欠きとなっています。
1番線ホーム側の下今市方の南端の様子です。
6両編成の特急列車が停まれる様にホーム有効長が伸ばされています。
切り返して会津高原尾瀬口方の北へと見たホームの様子。
このホームの駅名標や表示は東武鉄道の仕様となっています。
中ほどで隣の野岩鉄道ホームの南端と並びます。
2両がデフォルトの野岩鉄道ホームと比べて
こちらの東武ホームの有効長の長さが際立ちます。
1番線の線路の終端。野岩鉄道開通前は新藤原駅はこちらの線路のみの駅でした。
現在は車止めの前に駅舎がありホームは反対の線路東側となっています。
2番線ホーム側は駅舎前にもホームが伸ばされており、
隣の野岩鉄道ホームと北端の位置が揃えられています。
切り返して再び南へと進みホームの入口へと戻ります。
1、2番線ホームから連絡通路を戻って改札前へ。
改札前から今度は左手北側へと連絡通路を進みます。
駅舎と野岩鉄道ホームとを連絡する構内踏切。
踏切を渡ると右に通路が曲がっており、こちらもホームへのスロープとなります。
こちらが島式の3、4番線ホームです。
1986年(昭和61年)の野岩鉄道会津鬼怒川線の開業で作られたホームで
当駅から北の野岩鉄道へと乗り入れる列車が発着するホームとなります。
西側の3番線の線路は、となりのホームの2番線と線路が共有で使用されています。
ですので当駅は島式2面で線路が3線となっています。
ホーム南端の下今市方の光景。野岩鉄道のホームとなるので
隣の東武ホームに比べて有効長が短いのが分かります。
ホーム南端の先に置かれた勾配標。
切り返して会津高原尾瀬口方の北へ。
今は使われていない売店跡がホームに残っています。
北端の会津高原尾瀬口方。ホームの出入り口は連絡通路のあるこちらの北側のみです。
■モデル車両: 東武鉄道 6050系電車
東武6050系電車は野岩鉄道会津鬼怒川線が開業する1985年(昭和60年)に
野岩鉄道と東武鉄道間の直通運転を行う為に作られた車両です。
元々は国鉄(当時)と東武日光線の競合による競争で、国鉄の準急形電車投入に対抗する為
居住性とスピードを兼ね備えた準急形車両として
1964年(昭和39年)から新製投入された東武6000系が元となっています。
登場当時は国鉄車両に対抗できるスペックの高い6000系でしたが、
さすがに登場から20年が経過するとまわりの車両も進化し車両設備も陳腐化してきます。
そこに1986年(昭和61年)10月の野岩鉄道開業による新藤原駅以北の開通によって
トンネルが大部分を閉める会津鬼怒川線への直通運転に備えた車両整備の必要もあり、
ちょうど車両更新の時期を迎えていた6000系を車体更新の上で
一部部品を流用した改造工事を行う事となりました。
こうして22編成44両あった東武6000系はその全車両が改造更新されており、
1985年(昭和60年)10月から翌1986年(昭和61年)10月までで全ての車両が
東武6050系として作り変えられています。
改造工事を終えた東武6050系の最初の編成である6151Fが運用に就いたのは
1985年(昭和60年)11月15日のことでした。
駅メモのでんこである新藤原ぼたんの誕生日が11月15日に設定されており、
これは東武6050系が更新後に営業運転を開始した日と同一となっています。
以後6000系は次々と短期間に急ピッチで6050系への改造工事が進められており、
1年あまりで編成全てが更新されて東武日光線と東武鬼怒川線の快速・区間快速を中心に
運用をされ野岩鉄道会津鬼怒川線への直通運転を行っています。
また1990年(平成2年)の会津鉄道の会津田島以南の電化後は
会津鉄道会津線へも直通運転が行われています。
東武6000系の改造によって22編成44両が作られた6050系ですが
野岩鉄道開業に際して1985年(昭和60年)と1986年(昭和61年)に1編成づつ、
1988年(昭和63年)には直通乗り入れ電車の車種統一などで8編成が、
会津鉄道電化の1990年(平成2年)には会津鉄道所有車の200番台が1編成
それぞれ完全新造されて増備されています。
【上写真:野岩鉄道6050系100番台】
6050系新造車のうち3編成が100番台として野岩鉄道に、
1編成が200番台として会津鉄道へとそれぞれ東武鉄道から譲渡されており、
野岩鉄道6050系100番台、会津鉄道6050系200番台としてそれぞれ運用されています。
6050系の更新車両と新造車は台車の形式が違うのだそうですが、
その他細かい差異はあれどほぼ同一の車両であると言って差支えは無いでしょう。
東武6050系の車体のカラーリングはジャスミンホワイト( )をベース色としており、
帯色にパープルルビーレッド( )とサニーコーラルオレンジ( )を配しています。
駅メモのでんこの新藤原ぼたんの衣装を見ると配色が同じであることが良く分かります。
この6050系の配色はその後東武100系スペーシアに採用されるなど
東武鉄道の日光方面優等列車のイメージカラーとなっています。
その後6050系は2017年(平成29年)4月のダイヤ改正で快速、区間快速と
浅草━新栃木間の区間急行が廃止された事で
東武日光線南栗橋駅より南での運用が無くなりました。
また2022年(令和4年)3月のダイヤ改正では
東武鉄道所有の6050系の旅客運用が全廃となり、
会津鉄道所有61201Fと野岩鉄道61101Fも廃車となった事から
旅客運用をされている6050系は野岩鉄道の2編成のみとなりました。
2022年(令和4年)10月に駅メモで6050系をモチーフとした新藤原ぼたんが登場しましたが、
キャラのリリース時に運用されている6050系は野岩鉄道6050系100番台の
鬼怒川温泉駅━会津高原尾瀬口駅間を走る2編成のみとなっています。
【上動画はクリックで再生します。】
こちらは新藤原駅へと入線する6050系の動画です。
以下ではこの6050系について各車両について見ていきたいと思います。
鬼怒川温泉方に編成されるモハ6150形です。
モ(動力車)ハ(普通車)となりモーターを搭載している普通車両となります。
編成略記号ではMcでM(動力車)c(制御車)となり、動力のある運転台付き車両となります。
パンタグラフは両側車端の屋根上に1基づつ計2基が搭載されています。
このうり運転台側の1基は霜取り用パンタグラフです。
寒冷地を走る東武日光線や野岩鉄道では冬季に架線に雪や霜が付着する為
進行方向前側のパンタグラフで霜を落とし後方のパンタで給電を行っています。
新藤原ぼたんの背中には車両と同じ下枠交差式のひし形パンタグラフがあります。
またカメラの三脚を見ると集電シューと同じ形状であることが分かります。
鬼怒川温泉方車端の運転台後部付近の様子です。
運転台の仕切り壁の背後には両側に2人掛けロングシートがあります。
そのロングシートの横の乗降扉付近。車両は片側2ドアのセミクロスシート車両となっており
扉の両側の座席がロングシートとなります。
車内客室の様子。扉間の座席はご覧の通りボックスシートとなっています。
会津高原尾瀬口方の連結部付近。こちらも車端両側に2人掛けロングシートがありますが
優先座席となっていてモケットの色がブルーグレーとなっています。
つり革も優先座席付近だけ三角の黄色のものに。
切り返して見た車内客室。
二両編成の会津高原尾瀬口方に編成されているクハ6250形です。
ク(付随車)ハ(普通車)で動力を持たない客車車両となります。
編成略記号ではTcでT(付随車)c(制御車)ですので
運転台があり動力の無い制御車両という意味となります。
会津高原尾瀬口方の車端運転台後方付近。
こちらは運転台の扉の上に設置されている行先表示器です。
同じ編成で2両ごとに行き先が異なる運用がされることも多かった為
乗客の誤乗防止の為に大きく目立つ回転幕式の表示器が設けられていました。
運転台の中の様子。貫通扉付近に見えるステップは非常用の梯子で、
大半をトンネル区間が占める野岩鉄道を走る事から備えられているものです。
車内客室の光景です。セミクロスシート車両であるのは同様です。
鬼怒川温泉方の車端付近。乗降デッキの先の
連結部前東側には和式トイレが設置されています。
トイレの向かい側は車いすなどに対応のフリースペースが。
妻側の壁にはくずもの入れが設けられています。
切り返して見た車内。車端にトイレがあるのでクハ6250形の優先座席は
ご覧の通り後部乗降扉の運転台側の脇にあります。
会津高原尾瀬口方へと向かって運転台方向へと見た車内。
ボックスシート席は1525mm間隔で配置されており
作られた当時としては広めとなっています。
グループ利用を想定した折り畳みテーブルが窓側にあり
テーブル脇のボタンを押して開閉し使用することができます。
新藤原ぼたんのリリース時には野岩鉄道6050系100番台しか営業運転をしておらず
上の詳細写真も野岩鉄道車のものですので、参考として2017年(平成29年)に撮っていた
東武鉄道6050系の車内の様子の写真も載せておきます。
ご覧の通り基本的には外観は変わりません。
この6050系という電車は元の種車の東武6000系から数えると2022年現在で58年、
東武6050系へと改修されてからでも37年が経過している車両です。
ですので6050系をモチーフとしている駅メモのでんこの新藤原ぼたんにも
各所で「パーツが古い」といった類の設定が見受けられます。
そして唯一6050系が残る状況となった野岩鉄道では
2022年(令和4年)8月より6050系改修費用のクラウドファンディングを実施。
資金の調達に成功しており、2023年(令和5年)3月に改修を予定しています。
これによって6050系には観光列車的な改修がされるという事となり、
登場以来の姿を保っている6050系は2022年度中までしか
見られないという公算が大きいということになります。
もちろん今後もしばらくは野岩鉄道で6050系を見ることはできるでしょうが
原型の6050系を見ることができる期間は残り僅かであるという事は念頭に置くべきでしょう。
ここからは余談となりますが、6050系モチーフのでんこが登場すると分かった当初は
「とうとう東武鉄道のでんこが登場するのか」と思いました。
しかし、
■東武6050系は野岩鉄道開業の為に生み出された形式
■リリース時に走る6050系は野岩鉄道のもののみ
■苗字の由来である新藤原駅は野岩鉄道管理駅
■開業以来野岩鉄道が保有する車両は6050系のみ
といった点を考え、また駅メモのでんこには第三セクター由来のものが多い状況などから
新藤原ぼたんは野岩鉄道由来のでんこであると推測するに至りました。
ですので駅については野岩鉄道の駅として扱っています。
そして車両については
■野岩鉄道6050系も元は東武鉄道からの譲渡車である事
■東武鉄道との関係性(地理的なものや営業的なもの)が
6050系が野岩鉄道で開業時に採用された理由と考えられる事
■誕生日の11月15日は東武での営業運転開始日(野岩鉄道はまだ無かった)
といった観点もあり、
また野岩鉄道6050系100番台も東武6050系の1形式カテゴリーであると考え
大きなくくりで「東武6050系」を車両の元ネタと考えるのが合理的かと思った次第です。
無論公式な発表はされていないので、あくまで推測でしかありません。
後日に公式発表され異なっていた場合には修正をしたいと思います。
では。
【写真撮影:2022年10月ほか】