さて、宗谷本線の続きです。
その1(旭川駅━比布駅)はこちら。
こちらは比布駅から北に3.1kmほど北上した
田んぼの中の町道の光景です。
この町道と宗谷本線が交わる比布町11号踏切の脇に次の駅があります。
踏切から東に260mほどには道道520号鷹栖東鷹栖比布線が走っていますが
道道まではご覧の通り見渡す限りの田んぼが広がっています。
切返して西へと向かって見た駅付近。
駅の西側には細い歩行者と自転車のみ通行可の道が伸びています。
南側にも線路に併走して歩行者自転車道が伸びていますが、
この道の標識にも地先車限定の表記がされています。
こちらが北比布駅の待合室の外観です。
駅は1955年(昭和30年)に北比布仮乗降場(局設定)として開設されたもので
1959年(昭和34年)に駅へと昇格しました。
ちなみにこちらは二つ南の南比布駅の待合室ですが、
並べて見ると北比布駅の待合室とうり二つであることが分かります。
北比布駅の待合室も2014年(平成26年)に建て直されたもので
南比布駅と北比布駅の待合室はほぼ同時に改築された様です。
待合室の目の前の踏切東側脇にあるホーム入口。
こちらがホームの様子です。
単式ホーム1面1線の棒線無人駅でとなります。
この駅もホーム有効長が1両分で床が木製デッキという
いわゆる朝礼台と呼ばれる形式のホームとなっています。
駅周辺を見渡してみても上川盆地の田んぼが広がるのみの光景となっています。
こちらは北比布駅から北へと2.6km進んだ
次の駅の蘭留駅の駅前の道路の光景です。
駅から東へと130mほどには国道40号線が併走しており
国道の比布町蘭留交差点が駅への入口となっています。
こちらが蘭留駅の駅舎の外観です。
駅は1898年(明治31年)に北海道官設鉄道天塩線が
永山駅から当駅まで延伸開業した際に開設されました。
駅舎は1988年(昭和63年)に改築されたものとなります。
駅前には駅舎前で行き止まりの広場があります。
舗装された広場は車を数台を停めることが可能な広さがあり
倉庫が広場に面して置かれています。
駅と広場の東側すぐにあるバス停。
駅舎の中はご覧の通りで、土間の床にベンチが設置されています。
ホーム側から見た駅舎の入口です。
駅舎のある東側の1番線ホームの様子です。
この駅も2番線が主本線の一線スルー方式となっており、
1番線ホームは上下副本線となり退避列車が停まるホームとなります。
駅は千鳥式ホーム2面2線の構造となっています。
ホームの南端の旭川方に駅舎と構内踏切があります。
こちらは1番線と2番線を連絡する構内踏切。
西側の上下主本線となる2番線ホームです。
無人駅で特急通過駅なので駅舎の無い側が主本線となっています。
ですので半分は通過線の役割である2番線には
ホーム上に待合室などの構造物はありません。
また1番線の南側にはご覧の引き上げ線が設けられています。
1984年(昭和59年)までは駅での荷物取り扱いがあったそうですので
恐らくは貨物ヤードの名残りかと思われます。
国道40号線の塩狩峠は石狩国と天塩国との境界にある事が名前の由来で、
石狩川水系と天塩川水系の分水嶺でもあります。
蘭留駅からは北西へおよそ5kmほどの国道40号線の塩狩峠付近には
東側へと入る分岐路があるのですが、この分岐路の先に
宗谷本線の次の駅が設けられています。
線路につきあたって右にカーブを描いた道路は
左手に駅のホームを望みながら100mほどで駅舎へとたどり着きます。
こちらが塩狩駅の駅舎の外観です。この付近は1899年(明治32年)に
蘭留駅━和寒駅間の延伸開業によって線路が敷かれていますが、
1916年(大正5年)にこの塩仮峠に塩狩信号所が設置されました。
駅へと昇格したのは1924年(大正13年)のこととなります。
現在の駅舎は1939年(昭和14年)に改築された切り妻屋根の駅舎です。
駅舎は道路のつきあたりにあり、駅前付近の道は幅が倍となり
一応の車の展開程度はできるスペースがあります。
道路から左手の改札ラッチを通り抜けて建物左手にまわり込むと
ご覧の二つの出入口があるのが分かります。
右の道路側が待合室、左が駅務室の入口となります。
駅舎の中の待合室の様子です。
コンクリートの土間で木製ベンチがいくつか置かれています。
駅舎の前はすぐにホームがあり、高台となっている駅舎から下る階段があります。
こちらが駅舎の目の前にある1番線ホームです。
千鳥式ホーム2面2線の駅となっており、こちらの1番線が
一線スルー方式の上下主本線となっています。
山中の峠の信号所だった駅だけにホームも土留めをした土のホームです。
ホーム北端の名寄方には構内踏切が。
千鳥式に配置された駅の中央でお互いのホームを連絡していますが、
駅前の道路からは踏切に下る道が作られています。
そしてこちらが2番線ホームです。上下副本線となり
列車交換時や退避列車が使用するホームとなります。
二つの線路の間の間隔が開いていますが、これはかつて中央に待避線があった為で
現在は線路が撤去されているためです。
駅舎の前の道路へと戻り国道方面へ戻ると
ちょうどカーブのところにユースホステルの建物が見えます。
そのホステルの建物の目の前の、道路と線路の間にご覧の碑が建てられています。
これは「長野政雄氏殉職の地」顕彰碑で、当地で駅ができる前の1909年(明治42年)にあった
列車事故で殉職をした国鉄職員を記念したものです。
この事故は旭川在住の小説家・三浦綾子によって1966年(昭和41年)に
「塩狩峠」という小説として発表されてベストセラーとなり
1973年(昭和48年)には映画化され塩狩峠の名は日本中に知られる事となりました。
顕彰碑の目の前の線路脇にある「塩狩峠」の木標です。
そしてホステルや碑から道路の反対側は丘となっており
斜面を上へと登る階段があり、上には建物が建っているのが見えます。
こちらは「塩狩峠記念館」で、「塩狩峠」を執筆した三浦綾子氏の
旭川の旧宅を移築した記念館となります。
そして記念館の前の丘にはおよそ1600本の桜の木の並木の
「塩狩峠一目千本桜」があります。
1978年(昭和53年)から地元の和寒町や旭川鉄道管理局(当時)などで植樹したもので
北海道でも有数の桜の名所となっています。
塩狩駅の名所案内にも千本桜の案内が。
こちらは塩狩峠から7.4kmほど国道40号線を北上した和寒町の中心街付近の光景です。
ご覧の交差点の北側に宗谷本線の次の駅があります。
切り返して見た交差点付近。
この交差点付近では南東から北西方向へと国道40号が走っており、
宗谷本線もすぐ北側を併走しています。
この駅前の交差点に名前はついていませんが、
駅と反対側の南側の道路は交差点を起点とする道道48号和寒幌加内線となっており、
130mほど進むとY字路となって道道99号和寒鷹栖線が分岐しています。
国道40号の交差点から北側の駅方向へ。
40mほどで駅前の広場となります。
駅前広場から見た国道40号線方向の光景。
こちらが和寒駅の駅舎の外観です。
1899年(明治32年)に北海道官設鉄道天塩線が蘭留駅から当駅まで延伸して開設され、
現在の駅舎はJR移管後の1988年(昭和63年)に改築されました。
駅舎の外観は塩狩峠をイメージしているのだそうです。
駅舎前の駅前広場はご覧の通りかなり広めの舗装されたスペースとなっています。
特に広場内に区画などはされていませんが、ご覧の通り車を停めてもかなりの余裕があります。
駅舎の中の様子です。
土間の床の待合室にベンチが設置されています。
待合室の北側には駅務を行う事務室がありますが
1995年(平成7年)に出札業務が廃止され無人となったので
現在は保線員の詰め所として使われています。
ホーム側から見た駅舎出入口付近の様子です。
駅舎のある駅西側の1番線ホームです。
和寒駅は単式1面1線と島式1面2線の計2面3線の駅となります。
1番線は下り線の名寄・稚内方面行きホームとなります。
千鳥式に配置された二つのホームは跨線橋で連絡されています。
ホーム南側の旭川方の光景。
増設されたのか細いホームが延びています。
南側から見た駅構内の様子です。
こちらが駅の跨線橋の中の様子です。
橋から見た駅構内の俯瞰。
島式ホーム側の階段上にはパイプ椅子が置かれており
屋根の無い島式ホームの待合室の役割も果たしている様子です。
こちらが島式の2、3番線ホームです。
駅舎に近い西の内側が2番線で上り線旭川方面の列車が使用します。
一番外の3番線は上下線双方の待避線となっています。
ホームの端は柵が立てられて2番線側のみが舗装された
擬似の切り欠きホームのようになっています。
そして3番線ホームのさらに外側にも2本の留置線があるのが見えます。
これはかつての貨物側線で往年の駅の反映の名残と言えるでしょう。
ホーム南端の跨線橋の裏側。
こちらも2番線側のみが舗装されて柵が立っています。
駅舎を抜けて再び駅の外へ。
北側の駅舎の横にはご覧の青い跨線橋があります。
これは宗谷本線の西側と東側とを連絡する連絡橋で
1973年(昭和48年)に作られました。
そして駅前から北側の駅敷地に隣接して
こちらの和寒町交流施設ひだまりの建物があります。
建物は2002年(平成14年)に建てられたもので
当初は地域の交流施設でしたが2018年(平成30年)に
物産販売所を兼ねた観光案内所が設置され和寒町をPRする場所となりました。
和寒駅から北西に一直線に5kmほど進むとご覧の踏切があります。
およそ500mほど東に国道40号線が宗谷本線と併走して北上しており、
ほぼ障害物の無い一直線の町道からはその交差点を彼方に見ることができます。
こちらが町道の東6線踏切。
この踏切の脇に次の駅が設置されています。
反対の西側から見た踏切付近の光景。
線路の周囲に木々が生えているのは鉄道防風林で風雪から列車を守っています。
こちらが東六線駅の駅の外観です。
1956年(昭和31年)に旭川鉄道管理局設定の東六線仮乗降場として開設された駅で、
3年後の1959年(昭和34年)に正式な駅へと昇格しています。
駅名の東六線とは殖民開拓の区画に由来するもので、
原野を碁盤の目に区画する際に基線と呼ばれる基準の道から
並行する道路を「東~線」「北~線」とし、
直交する道路を「西~号」「南~号」とした事が元となっています。
ですので東六線とは基線から東に六本目の道路となります。
こちらが東六線駅の待合室の建物です。
トタン板の張られた建物に「東六線乗降場」と駅名標が掲げられています。
待合室の中はご覧の通りで土間は打たれておらず地面が剥き出しであり
壁際に木製のベンチが作られています。
ホームへは待合室の前から石が敷かれており
南側のスロープが唯一の入口となります。
こちらがホームの様子です。
単式1面1線の棒線無人駅となっておりいわゆる朝礼台の
有効長1両分の木製ホームが設置されています。
鉄道防風林の外側は一面の田畑が広がっています。
ホーム側から見た待合室。
駅周辺に広がる田んぼや畑の光景です。
こちらは東六線駅から北西に3.6kmほど進んだ
剣淵町の中心市街にある剣淵駅の駅舎の外観です。
駅は1900年(明治33年)に北海道官設鉄道天塩線が
和寒駅から士別駅まで延伸された際に設置されました。
現在の駅舎は1988年(昭和63年)に建替えられたものとなります。
駅舎の前から西へと伸びる道路は道道293号温根別剣淵停車場線で
剣淵駅が終点の停車場線となっており、130mほど先の交差点で北へと曲がっています。
なお停車場線が曲がる交差点の南西側には剣淵町役場があります。
駅前にある駅周辺の地図です。
ご覧の通り駅舎の前には舗装された広場があります。
特に構造物や区画などは無い舗装された駅の敷地となっています。
広場を挟んで駅舎の反対側正面の道道脇にある駅前商店(丸八おざわ商店)。
この丸八おざわ商店は剣淵駅の簡易委託販売所となっており
乗車券の販売を行っていて駅舎の壁にご覧の通りその旨が掲示されています。
丸八おざわ商店の道道の向かい側にある駅前旅館。
駅前広場から道道の停車場線と直交して北へと向かう町道。
250mほどで道道984号温根別ビバカルウシ線に合流しています。
駅舎の中の様子です。入口を入るとコンクリートの土間の待合室があり
片隅にプラスチックのベンチが置かれています。
そして外の入口の左側を見るともう一対入口の扉があり
「剣淵町観光物産館」と「バスターミナル」と書かれています。
中は町のバスターミナルと物産の展示された棚があり、
駅待合室とはガラス戸で仕切られて別の部屋となっています。
ホーム側から見た駅舎の様子です。
現在は無人化された駅の為、ホームと外との間に柵などはなく
自由に出入りができる状態となっています。
ホームの様子です。
駅は相対式ホーム2面2線となっていて駅舎のある西側が1番線となります。
こちらは一線スルーの上下主本線となっており
基本的には列車はこちらに停まります。
ホームの床は舗装はされておらず砂利敷きとなっています。
こちらがホーム同士を連絡する跨線橋です。
ガーター橋の桁がこの駅でも跨線橋に転用されているのが分かります。
上から見た駅構内の俯瞰。
こちらが2番線ホームとなります。
上下副本線となり列車交換時や特急の退避などで使用されるホームです。
かつては2面3線の国鉄形の駅だった為、
2番線ホームのさらに東側にも線路が敷かれ島式のホームでしたが
現在では線路が撤去されて単式ホームとなっています。
剣淵駅から宗谷本線を直線で5km北上すると次の駅となります。
こちらは剣淵町北部の12線道路の宗谷本線踏切付近の光景です。
線路の脇には鉄道防風林の木々が見えます。
宗谷本線の12線踏切。
この踏切の南側の脇に次の駅が設置されています。
反対の西側から見た踏切付近。
踏切から南側を見ると駅のホームが見えます。
道路脇のこちらが北剣淵駅の待合室の外観です。
1959年(昭和34年)に鉄道管理局設定の北剣淵仮乗降場として新設された駅で
正式な駅へと昇格したのはJR北海道に移管した1987年(昭和62年)となります。
待合室の中の様子です。
駅名標も特には掲げられておらず全て木造の建物は物置にしか見えませんが、
中はご覧の通り板張りの床にベンチが設けられています。
待合室の前からけもの道のような通り道を南に進むと
すぐに線路脇へと出てホームの入口が見えます。
ホーム北端の入口です。
スロープでは無く木製の階段となっています。
他の同様の駅はホーム土台は鉄骨などで作られているのですが
この駅のホームは土台まで木造となっていました。
北剣淵駅のホームの様子です。
単式ホーム1面1線の棒線無人駅で列車有効長1両分の朝礼台ホームとなります。
鉄道防風林と地平線までの畑が広がっているのみで
農家を数軒見る以外には駅周辺には何もありません。
駅から西の道道536号剣淵原野士別線までは1.4km、
東の国道40号までは1.5kmの距離があり、
国道に接続する道央自動車道の士別剣淵ICが周囲の唯一といって良い施設となります。
ホームから12線道路への光景。
北剣淵駅を出た宗谷本線は引き続き一直線に北へと向かいます。
こちらは3.7kmほど北の士別市街にある道道297号士別停車場線の光景です。
駅から350mほどで国道40号線へと連絡をする停車場線となります。
この停車場線の西端に駅があり道道の起点となっています。
こちらが宗谷本線の士別駅の駅舎の外観となります。
1900年(明治33年)に北海道官設鉄道天塩線が和寒駅から当駅まで延伸され設置されました。
駅舎は三代目となり1966年(昭和41年)にRC造りに改築されたものです。
建物の前にある士別の観光案内地図。
駅舎の前はかなり広めの駅前ロータリーとなっており
広場に四方の市道や道道が接続する形状となっていました。
駅前広場の東側の、停車場線への入口の角にある士別軌道の士別駅前バス停。
士別軌道はかつてこの地を走っていた軽便鉄道で1959年(昭和34年)に軌道事業は廃止。
現在はバス事業のみとなっておりこちらはそのバス停です。
広場の南側を見ると駅前交番が置かれており、
その奥の南側はJAがあって煉瓦造りの農業倉庫がいくつか見えます。
交番前から見た道道297号士別停車場線。
反対の広場北側には駅前の蕎麦屋さんがあります。
蕎麦屋の向かいの広場北側に面した線路沿いの敷地は
ご覧の通り駅利用者の駐輪場となっています。
その北側は士別市の駅駐車場に。
駅舎の入口へ戻ります。
入口脇にある黒板の伝言板。
都市部では今はほとんど見られません。
外から駅舎へと入ると雪国なのでまず風除室があります。
左へ風除室を抜けると改札前のコンコースへ。
有人駅なので券売窓口があり駅員が常駐しています。
改札前から北側の半室はガラスで仕切られた待合室となっており、
狭いながらもベンチが置かれ、駅そば店と売店が営業をしています。
売店は2002年(平成14年)までキオスクだったそうで、撤退後に今の店となっています。
待合室は入口の風除室からも直接入る事が可能です。
ホーム側から見た駅舎の改札口付近です。
駅のホームの様子です。
士別駅は全ての特急が停車するので高速通過の為の一線スルーとはなっておらず、
駅舎のある東側の1番線は旭川方面行き列車の上り線ホームとなっています。
1番線ホーム南側にある大きな額。
「サフォームランドしべつ」と書かれ羊の群れが描かれています。
サフォーク種とは羊の品種で、顔が黒く主に羊肉をとる食肉種の羊です。
絵をよく見ると全てが羊毛で描かれており、士別が羊の街であることをアピールしています。
駅舎のある1番線はホームの大部分に屋根があり風雪がしのげます。
跨線橋の裏側となるホーム北端付近。
「YOUKOSOサフォークの街士別へ」
看板の横は待合室の窓です。
駅の北寄りにある跨線橋。
橋から見た駅構内の俯瞰です。
島式ホーム側への階段。
こちらが島式ホームの2、3番線となります。
2番線は下り名寄・稚内方面行きの下り線ホームとなり
特急も停まるのでホームが伸ばされています。
有効長を伸ばす為に増設されたホーム南側の様子です。
ホーム北側の跨線橋寄りには屋根があります。
「羊のまち 士別へようこそ」の観光看板も。
一番西側の3番線ホームは臨時列車と下り列車1本のみ使用という
事実上使われていない状態となっています。
冬季は雪の為3番線は閉鎖されるそうですが、
ご覧の通り夏でもホームにロープが張られていました。
宗谷本線は旭川駅から士別駅までで53.9kmとなっていますが、
全長359.4kmなので路線はまだまだ北へと続きます。
士別駅以北のつづきについてはその3にて。
では。