廃線・廃駅

北丹鉄道00
さて、お次は京都北部の北丹鉄道についてです。


1923年(大正12年)に福知山駅━河守駅間が開業した路線は
当初は計画中だった国鉄宮津線への福知山からの短絡を目論んで建設されましたが、
内陸部を回る予定だった宮津線が計画変更で海岸部経由へと変更。
長大な路線敷設を賄う体力が無かったことから北丹鉄道は河守以北の延伸を断念します。

すでに開通していた福知山駅━河守駅間でも建設予算の都合によって
路線の多くの区間を由良川の河川敷に敷設するという状態で、
区間によっては堤防に内側を列車が走る区間もあったほどでした。

結果、洪水の多い由良川の増水によって幾度となく浸水し運休。
常に経営難に見舞われる事となり、保線へと予算が回らず線路が荒廃します。
その為列車の最高速度はわずか25km/hに制限されるなどし、更なる利用者減を招く事態となります。

1966年(昭和41年)には河守駅━宮津駅間を日本鉄道建設公団が宮守線として着工。
北丹鉄道は鉄道路盤の国の買い上げに一縷の望みを託し運行を続けます。

そして1969年(昭和44年)の河守鉱山の閉山によって貨物輸送が激減。
とうとう持ちこたえられなくなった北丹鉄道は1971年(昭和46年)に休止し、
そのまま廃止となり会社も解散となりました。


その後紆余曲折があって1988年(昭和63年)に第三セクターの宮福鉄道が開業。
北丹鉄道の為し得なかった福知山と宮津の連絡が成し遂げられました。



北丹鉄道01
こちらはJR西日本の福知山駅の北口です。
JRとしては山陰本線と福知山線の乗り入れる駅であり、
WILLER TRAINS(京都丹後鉄道)もこの駅を起点としています。

そして今回廃線跡を巡る北丹鉄道も、この福知山駅を起点としていました。
駅は1923年(大正12年)の北丹鉄道の開業によって設置されたものです。
北丹鉄道02
駅の北口には大きなロータリーのある広場がありますが、
その広場の西側に建っているのがこちらのJR西日本福知山支社のビルです。
福知山は北近畿の鉄道の要衝ですのでこのように支社が置かれていますが、
かつての北丹鉄道の福知山駅はこの福知山支社のビルの南側にあったそうです。



現在は立体交差事業によって高架線となっているJRの線路に沿って
北丹鉄道は福知山駅前から線路の北側を西へと併走して進みます。
北丹鉄道03
こちらは駅の北を東西に走る府道523号福知山停車場篠尾線の交差点です。
駅からは西へおよそ350mほどの場所にある信号の交差点となります。
すぐ西側には京都府福知山総合庁舎がある付近です。

山陰本線と併走をしてきた北丹鉄道の廃線跡は
この交差点へと向かって北にカーブを描いて走っていました。
北丹鉄道04
府道の交差点を横切った廃線跡は、そのまま北へと道なりに右カーブを描いて進みます。
写真の道路はかつての廃線跡だそうです。
北丹鉄道05
ごらんの交差点から先は、廃線跡は住宅地の開発に飲み込まれており
全く痕跡が残っていません。ですが前後の位置関係から
赤線で示した通りに廃線跡は直進をしていたと考えられます。
北丹鉄道06
裏手に回りこむと川が流れていました。
廃線跡は赤線のように進んでいたと思われます。
北丹鉄道07
廃線が消えた交差点から北におよそ130mほどの
昭和通りと新広小路通りの交わる交差点です。
廃線跡は交差点を斜めに横断して北へとまっすぐに進んでいたと思われます。
北丹鉄道08
交差点の先は廃線跡は住宅地に消えている為、
100mほど北の裏手へと回りこみます。
廃線跡の敷地は私立幼稚園の敷地となっており、
その幼稚園の敷地の真ん中を鉄道は通っていた様です。


北丹鉄道09
幼稚園を背に北側を見るとご覧の光景です。
この先が駅のあった場所なのですが、
駅ホームの他に機回し線と車庫への引き込み線が1本づつあったそうで
敷地の幅はそれなりにあったと思われます。
北丹鉄道10
北へと進んでみるとご覧の通り、
同じ形をした家が一列に並んでいてなんとも壮観な光景となっています。
恐らくこの付近は引き込み線のあったあたりであり、
ある程度幅のある細長い土地をハウスメーカーが開発分譲した結果だと思われます。
北丹鉄道11
同じ形の家の分譲地から一本東側の道へと進み、
北に進むとまもなく公園が見えてきます。
こちらの公園が北丹鉄道の福知山西駅の駅跡となります。
北丹鉄道12
公園の外観です。この公園には「西駅公園」という名前がつけられており
かつての駅跡であったことを示しています。
北丹鉄道13
公園の中の様子です。北丹鉄道では一番規模の大きな駅だったそうで、
駅舎の他に北丹鉄道の本社も置かれていたので
それなりの広さの敷地の公園となっています。
北丹鉄道14
公園の北西の一角にある「北丹鉄道本社跡」の石碑です。
1983年(昭和58年)に福知山市によって建立されたそうです。
北丹鉄道15
そしてこの公園が駅跡であることを示すのがこちらの蒸気機関車です。
北丹2号と呼ばれる蒸気機関車で開業より走っていましたが
1956年(昭和31年)に廃車となっています。
こちらに展示されているのは実車では無く、
2004年(平成16年)に福知山市によって復元されたレプリカです。
北丹鉄道16
機関車の脇には駅名標を模した石碑が。
北丹鉄道46
ちなみにこのレプリカが静態保存されている線路は営業当時の位置に作られています。
北丹鉄道47
公園となった後の写真のあるこちらこちらの写真を参照すると
営業当時の駅の位置関係が良く分かります。
駅の北に伸びる道路が廃線跡と言われていますが、
実際には道路の西側に並ぶ住宅のあたりまでが線路だった様です。
ですのでレプリカの横のホーム状の部分は
実際に営業当時に使われたホームの一部
であることが分かります。
北丹鉄道17
横から見た、駅跡を出る廃線跡。



廃線跡は北へと向かい、由良川にぶつかるとカーブを描き
河川敷の左岸(東岸)を北東方向へと進みます。

鉄道を河川敷に敷設したのは建設資金の都合からと言われており、
結果洪水の多い由良川の出水の影響を何度も受ける事となります。
北丹鉄道18
河川敷に近い田んぼの中の光景ですが、
こちらがかつての下川駅の駅跡となります。
二車線の市道がかつての廃線跡で、写真中央を奥へとまっすぐに伸びる道は
あぜ道に見えますが宮津街道の旧道だそうで、
街道と鉄道が交差するこの地が駅設置場所に選ばれた様です。
北丹鉄道20
福知山西駅からは北東に直線で3km、営業距離で3.4kmの地点のこの駅は
開業当初からあった駅では無く、戦後の1948年(昭和23年)に住民要望で設置された駅だそうです。
なんでも住民が自分で駅を作る事を条件に設置されたそうで、
土を運んで3ヶ月かけてホームを作り上げた
そうです。
そのため地面に単式ホーム1面1線があるのみで駅舎も無い無人駅でした。
北丹鉄道19
駅跡の目の前に設置されている下川バス停です。



北丹鉄道21
下川駅跡を背に廃線跡と北へと進むと450mほどで牧川を渡ります。
かつては牧川橋梁が架かっていたそうですが、市道の自動車橋へと架け替えられています。
北丹鉄道23
小高くなった橋から南の下川駅跡方面を見た光景。
北丹鉄道22
こちらは逆に橋から北へと廃線跡の市道を500mほど進んだ地点で、
右へと分岐している道路は府道527号筈巻牧線の起点です。
もう少し北へと進むと次の駅の駅跡となります。


北丹鉄道24
写真の左中央に見える白い建物は天津小学校の校舎です。
この小学校の南側付近にかつての駅があったそうです。
北丹鉄道25
こちらのT字の交差点付近がかつての上天津駅の駅跡付近となります。
廃線を転用した市道の東縁付近が駅跡と思われますが
遺構が全く残っていないので正確な位置は不明です。
当時の写真を見ると駅舎はホームの西側にありました。
北丹鉄道26
ただ、こちらの小学校の南を東西に走る道路は
かつての駅への取り付け道路だったそうで、
この道の正面付近の市道付近が駅跡であることは当時の写真からも間違いありません。



下天津駅跡を北に進むと、市道はすぐに国道175号線の宮津街道へと合流します。
廃線跡は国道と由良川の間を進んでいた様で、用水路を跨ぐ小さい橋梁跡などが
国道の東脇に点在している様です。
北丹鉄道27
こちらは国道上の下天津バス停。
上天津駅からちょうど2kmほど北上したこのバス停付近に
次の駅の駅跡がありました。
北丹鉄道28
こちらが下天津駅の駅跡付近となります。
1923年(大正12年)の北丹鉄道の開業時に作られた駅で、
福知山西駅に次ぐ大きさの駅だったそうです。
北丹鉄道29
交差点前にはかつての駅へと下りる舗装された道が
現在でも荒れながらも残っていました。
北丹鉄道30
駅跡へ西から伸びている道路。
現在は市道に交差点で合流していますが、かつては駅へと通じる道でした。
北丹鉄道31
北丹鉄道の下天津駅跡から西に250mほどの場所には
京都丹後鉄道の下天津駅が設置されています。
北丹鉄道32
高架駅のホームから西側を見ると、北丹鉄道の下天津駅跡付近を
ご覧の様に俯瞰で見下ろすことができます。


北丹鉄道33
国道175号線を北上し、こちらは国道176号線が分岐する下天津交差点です。
名前が同じですが下天津駅跡からは北に700mほどに位置します。
北丹鉄道34
下天津交差点から北にすぐの場所にあるのがこちらの丹後国標柱です。
大きい方に「従是北丹後国加佐郡」、小さい方には「従是南京都府天田郡」とありますので
ここが宮津街道の京都と丹後の境だったようです。
北丹鉄道35
標柱を過ぎるとまもなくご覧の付近へと差し掛かります。
この付近で北丹鉄道の廃線跡は国道に東側から西側へと道を跨いでいた様です。
北丹鉄道36
そしてすぐに目の前に現れるのがこちらのトンネルです。
これは北丹鉄道の日藤第一トンネルで、国道と同じ高さに嵩上げされて
歩道へと転用されている鉄道遺構となります。
北丹鉄道37
日藤第一トンネルの北側の出口。
北丹鉄道38
そしてトンネルを抜けるとご覧のように道を渡ってすぐに
再びトンネルが現われます。
北丹鉄道39
日藤第二トンネルです。こちらのトンネルは嵩上げされていませんので、
第一トンネルに比べると隧道が縦長なのが分かります。
北丹鉄道40
第二トンネルの北側出口付近の光景です。
北丹鉄道41
トンネルを抜けるとご覧のように廃線跡の国道と由良川はかなり接近しています。
北丹鉄道42
国道から由良川の堤防が分かれているこのあたりで
北丹鉄道の廃線跡は再び国道の東側へと道を跨ぎます。
北丹鉄道43
国道を跨いでいる京都丹後鉄道の跨道橋。
北丹鉄道の廃線跡は国道と堤防の間付近と思われます。
北丹鉄道44
引き続き国道脇の田んぼとの間を廃線跡が北上すると、
まもなく廃線跡は国道脇の舗装された小路となります。
北丹鉄道45
その先には、市の体育館の南の小川に架かる
北丹鉄道のガーター橋の遺構がまだ残っていました。
この橋梁を渡るとまもなく次の駅跡となります。


北丹鉄道48
国道175号線沿いのこちらが北丹鉄道の公庄駅付近となります。
駅は1923年(大正12年)の路線開業時に開設されました。

川西体育館の西側を通った廃線跡が、
体育館の北側に差し掛かったグラウンドあたりがかつての駅跡だったそうです。
国道沿いの黒田商店という雑貨店の斜向かいあたりに公庄駅の駅舎があったそうで、
単式ホーム1面1線の東側には貨物の引込み線があったそうです。
北丹鉄道49
そして北丹鉄道の公庄駅跡のすぐ北隣の目の前には
京都丹後鉄道の公庄駅があります。
北丹鉄道50
位置的には京都丹後鉄道の公庄駅の駅前ロータリーが
北丹鉄道の廃線跡であったことは間違い無いでしょう。


北丹鉄道51
公庄駅跡を出て引き続き国道の廃線跡を北へ。
駐在所の前と通過します。
北丹鉄道52
京都丹後鉄道と併走する国道を北上。
廃線跡は国道と京都丹後鉄道の間付近とも
京都丹後鉄道の敷地が廃線跡を利用したとも言われますが、
遺構が断片的にしか残っておらず正確なところは分かりません。
北丹鉄道53
左手にお寺や神社のある前を通過します。
北丹鉄道54
引き続き右手に京都丹後鉄道の築堤が見える国道を北上。
北丹鉄道55
国道と京都丹後鉄道の間に「緑の一里塚」なる休憩施設が見えてきます。
北丹鉄道56
そして右手に側道が現れ、その先にガソリンスタンドが見えると
次の駅の駅跡となります。公庄駅跡からは1.7kmほどの距離にあたります。


北丹鉄道57
こちらのガソリンスタンドのある信号の交差点が
北丹鉄道の蓼原駅のあった場所となります。
北丹鉄道58
国道175号線の東側、ガソリンスタンドの看板の下付近に
小屋が見えますがこちらは野菜の無人販売所だそうで、
この小屋付近に駅があったとのことです。

1923年(大正12年)の路線開業で出来た駅ですが
単式ホーム1面1線のみの無人駅だったそうで、
国道と鉄道に廃線跡が飲み込まれており痕跡は残っていません。



北丹鉄道59
蓼原駅跡を出た廃線跡は国道沿いに北へと向かいます。
この付近では国道と京都丹後鉄道がぴったり併走状態となっていますので
どちらかに廃線跡は飲み込まれてしまっていると思われます。
北丹鉄道60
駅跡から400mほど進むと国道と鉄道は左右に別れます。
廃線跡は左手の国道に沿って伸びており、
国道の東側沿いに北丹鉄道の路盤の跡が現在でも残っているのが分かります。
そしてまもなく北丹鉄道の終点が見えてきます。


北丹鉄道62
こちらは国道175号線(宮津街道)の河守交差点です。
府道493号西坂蓼原線が東へと分岐をしています。
この交差点の東側の真横がかつての河守駅の駅跡となります。

駅は1923年(大正12年)の北丹鉄道開業によって終着駅として設置されました。
ホームは1面1線でしたが、東側には機回し線が、ホーム裏手の西側へは留置線が延びていました。
北丹鉄道63
河守交差点の南東角にある砂利敷きの空き地です。
かつてはここにタクシー会社があってプレハブの事務所がありました。
この空き地が河守駅の駅構内の南端付近となります。
北丹鉄道64
そして旧タクシー会社敷地から県道を挟んだ北隣には
こちらの大江駅前商店街があります。この商店街は行政主導で作られたもので、
河守駅の跡地だった旧大江町の町有地が提供
されて
宮福鉄道(現・京都丹後鉄道)大江駅開業翌年の1989年(平成元年)に
書店や電気店、雑貨店など9店舗で開業しました。
北丹鉄道66
店舗の建物が立ち並ぶあたりがかつての線路の場所で、
その西側の商店街の通りになっている付近にホームがありました。
北丹鉄道61
おおよその図を書き込むとご覧のような感じで駅はありました。
ホームは現在の県道を跨いでおり、県道の場所付近に駅舎があったそうです。
北丹鉄道67
駅舎があったとされる県道付近。
北丹鉄道68
そして駅跡である商店街の東側には
京都丹後鉄道の大江駅があります。



北丹鉄道69
こちらは北丹鉄道の区間のau 4G LTEでの電波エリアマップです。
国道沿いの福知山市内の路線だったということもあり
全線が電波エリア圏内となっています。
駅へのアクセスに困る事はまず無いでしょう。


元々国鉄宮福線への転換を目論んでいた北丹鉄道は、
その廃線跡に併走するようにWILLER TRAINS(京都丹後鉄道)宮福線が走っています。
日本鉄道建設公団が建設した宮福線は高規格な為、
途中にいくつものトンネル箇所があります


しかしそれを考慮しても尚、京都丹後鉄道宮福線に乗ってレーダーを飛ばせば
基本的に北丹鉄道は全てコンプが可能
となります。
レーダーを使わなくても宮福線から直接チェックインできる駅もいくつもありますので
わざわざ現地へと出向かなくてもコンプできるという訳です。


まあ、福知山自体が京都や大阪などから結構な時間がかかる地であるという事もありますので
北丹鉄道を実際に現地まで行く人はそれなりの物好きだと思います。
北丹鉄道70
しかし、福知山には北丹鉄道の資料の集まった
「福知山鉄道館ポッポランド」もありますし、是非一度は行ってみてほしいなと。
北丹鉄道71
資金難でポッポランド、事実上の廃館になっちゃってますけど。


では。

森松線51
さて、次は四国は愛媛県の廃線である伊予鉄道森松線についてです。


1988年(明治21年)に松山駅━三津駅間6.8㎞を開業した伊予鉄道は
その旅客輸送成績の好調から、松山市近郊へ路線の延長へと乗り出します。
こうした路線の一つが1896年(明治29年)に開業した森松線で、
立花駅(現・いよ立花駅)から森松駅までの4.4kmの路線でした。

開業当初は軌間762mmの軽便鉄道規格でしたが
1931年(昭和6年)に1067mmに改軌。
沿線の椿神社の例大祭には臨時列車が出るなどしました。

しかし戦後になり併走する国道33号線が拡張整備されると
バス路線に乗客を奪われ旅客輸送成績が低下

一時間に4~5本走るバスに対し、一時間1本の鉄道は勝負にならず乗客は半減します。
結局乗客を挽回する方策は見つからず、森松線は1965年(昭和40年)に廃止となりました。

しかし皮肉な事に廃止後は森松線の沿線の宅地化が急速に進んで住民が増大。
森松より南の砥部も大きく発展した結果、あまりのモータリゼーションの進み具合に
国道33号線の渋滞が慢性化する事態となります。

ここで定時輸送のできる森松線が走っていれば乗客の受け皿になったと思われ、
「早計だった廃線」の一つに数えられるケースとなっています。



森松線01
こちらは伊予鉄道横河原線のいよ立花駅の駅外観となります。
1893年(明治26年)に伊予鉄道が横河原線を開業した際に設置された駅で、
開設当初は伊予立花駅という駅名でした。

現在の駅舎とホームは1967年(昭和42年)に改修された時に作られたものです。
元々伊予立花駅は単式ホームの1番線が一番北にあり、
その南に島式の2、3番線ホームがありました。
対面している1、2番線が横河原線ホーム、一番南の3番線が森松線ホームだったそうです。
そして1番線の北側には、道後鉄道の道後駅だった建物を移築した駅舎が建っていました。
森松線03
森松線が1965年(昭和40年)末に廃止となり、
ちょうど横河原線の電化も進められていたことから
1967年(昭和42年)に伊予立花駅の大規模改修が行われました。

駅構内で横河原線の本線を南側へと寄せて旧森松線跡地が空き地にならない様にし、
その北側に有効長60mの島式ホームを設置。これが現在のいよ立花駅のホームとなります。
ホームの北側には下り本線の線路を敷いて駅構内の線路は二本とし、
北側に残っていた旧駅舎は解体されて駅前広場となりました。
ですので現在のいよ立花駅付近の線路の線形を地図でみると
不自然に南に湾曲している
改修の名残りが見て取れます。
森松線04
駅北側の広場の様子です。
かつては駅構内に4本の線路が走っていましたので
こちらの広場まで線路が走り旧駅舎が建っていました。

駅前には1970年(昭和45年)に鉄道が所有する伊予鉄立花ビルが建てられていましたが、
老朽化によって2016年(平成28年)にビルは建て替えられました。
広場前の1階にコンビニの入るビルが伊予鉄立花ビルです。
森松線02
現在のいよ立花駅の改札付近です。
有人窓口と簡易ICカード改札機がある通路状となっています。
森松線05
ホームの様子です。
先に述べた通り1967年(昭和42年)の改修で島式ホーム1面2線となっています。
森松線06
ホーム東端に駅舎が設けられ、島式ホームには上屋の屋根が設けられています。

森松線08
ここでひとつ、重要な点があるのですが、
駅メモでは伊予鉄道横河原線の「いよ立花駅」と
森松線の「伊予立花駅」は別駅扱い
となります。

これは伊予鉄道森松線が廃止されたのが1965年(昭和40年)、
伊予立花駅がいよ立花駅へと改名されたのがその後の1980年代であるという事情によります。
「森松線のいよ立花駅」というのは存在しない為、
廃線を登録するにあたって同一駅ながら別駅扱いとしたのだと思われます。

ですのでこの付近には駅の座標が二つあり、駅のホームの中ほどに境界線があります。
現役路線の伊予鉄道横河原線でいよ立花駅に到着すると
廃駅しか取れない事態も起きますが、
駅到着前あたりで廃駅の伊予立花駅が普通に取れますので
地図を参照して両方ともチェックインして下さい。
森松線07
こちらは現・いよ立花駅の1番線の松山市方面行きホームの東端です。
森松線のあった時代とは若干線路の位置が変えられていますが、
おおよそこの1番線から写真右手へと向かって森松線が分岐していたと考えて良いでしょう。
森松線09
駅の東の踏切付近を俯瞰で見た光景です。
赤線で示したのが森松線のおおよその廃線跡となります。
森松線10
線路南側の廃線跡のうち、
市道に面した付近は伊予鉄バスの停留場となっています。
そしてその奥となる東側は駐車場となっていました。
森松線11
駐車場を奥に進んだ光景です。
廃線跡は写真を右手へとカーブを描いていましたが、
駐車場脇の建物が廃線後に沿って斜めに建っているので
かつてここに鉄道が走っていた痕跡を見ることができます。
森松線13
切り返して廃線跡から駅方向を。
森松線12
駐車場の奥のこちらの物置のある家の敷地がかつての廃線跡です。
森松線はこの奥を南へと進んでいました。

森松線14
駐車場南の廃線跡にある家を南側から。
森松線15
家から切り返して南側を見ると、
ご覧の廃線跡が転用された公園があります。
カーブの具合がかつて鉄道が走っていた痕跡をはっきりと示しています。
森松線16
廃線跡の公園を、南側に回ってみるとご覧の光景となります。
「立花三丁目遊園地」と看板があり、公園沿いには地元の公民館があります。

森松線17
廃線跡の公園から、市道を挟んだ南側には
こちらの愛媛銀行立花支店の裏門があります。
廃線跡は銀行の建物の東側の裏手を走っていましたので
この通用口ともいえる細長い道が廃線跡と思われます。

森松線18
こちらは銀行裏門から100mほど南の地点の駐車場で、
伊予銀行からは70m南にあたります。
写真は北へと向いて撮っていますが、
立っているあたりがかつての廃線跡と思われます。
森松線19
ご覧の様に廃線跡は南へと進み
駅前踏切から南下してきた二車線の市道へと合流していきます。
森松線20
こちらの自転車店の裏手あたりが廃線跡と思われます。
森松線21
その自転車店の南の目の前を見ると、
市道と駐車場の境界が切り欠きホームのようになっているのが分かります。
これは廃線跡を利用して市道が拡張された際に生まれた境界で、
この場所に森松線が通っていた事を示す遺構とも言えるものです。

森松線22
廃線跡の市道を南へ。
ここから南は廃線跡は完全に道路整備に飲み込まれており
その痕跡はほぼ残っていません。
森松線23
廃線跡へと出るイオンスタイル松山の駐車場出口。
森松線24
市道を進むと天山町交差点へと差し掛かります。
こちらは国道33号線が直角に曲がり、
松山南環状線へと通じている大きな交差点です。
森松線25
天山町交差点の北東角にあるイオンスタイル松山。

森松線26
森松線は国道33号線砥部道路となって南下します。
恐らく国道の東縁あたりが廃線跡と思われ、
記録によると国道拡張によって廃線跡が飲み込まれた様子です。
当然ながらこれだけの道路となった今では鉄道の痕跡は分かりません。
森松線27
引き続き国道を南下。
森松線28
森松線の代替となる路線バスが走っていました。
このバス路線は森松線廃止前から走っています。
森松線29
更に国道を南下。
いよ立花駅(伊予立花駅)からおよそ2km、天山交差点からは1.5kmほど進むと
次の駅の跡地が見えてきます。


森松線30
国道33号線で「椿神社」の案内標識が見えると
まもなく椿神社入口交差点となります。
伊予鉄道森松線の石井駅はこの椿神社入口交差点の北東付近にあったとされています。
森松線31
椿神社入口交差点は国道33号線と県道190号久米垣生線が交差しています。
森松線32
この交差点は名前の通り、椿神社と通称される伊豫豆比古命神社の参道入口でもあります。
ここから西の県道は神社までが参道とされています。
森松線33
駅は1901年(明治34年)に仮駅として設置されたのが最初で、
その後正式に駅へと昇格しています。

椿神社の例祭の参拝客を見込んで作られた駅である事、
国道33号線の東側付近が廃線跡とされることなどから
交差点北東角の焼肉店近辺が駅跡地ではないかと思われるのですが、
遺構が全く無い状態ですので、交差点付近が駅跡と思って十分でしょう。
森松線34
旧石井駅の最寄バス停の椿前停留場。



森松線35
旧石井駅跡を過ぎた廃線跡は、引き続き国道33号線を南下します。
森松線36
松山自動車道の高架橋をくぐる国道。
森松線の廃止より30年以上経った1997年(平成9年)開通の自動車道ですので
鉄道の営業当時には高架橋はありませんでした。

高架をくぐるとまもなく国道33号線は森松交差点でY字に分岐をします。
分岐の左手の一車線の道は県道194号久谷森松停車場線であり、
1982年(昭和57年)まで国道33号線であった旧道にあたります。
森松線の廃線跡も旧国道に沿って東へと逸れます。
森松線37
そして旧国道を300mほど南下すると森松線の終点の駅跡が見えてきます。
この300mは県道194号県道194号久谷森松停車場線と
県道193号森松重信線の重複区間でもあります。


森松線38
県道194号線と県道193号線が分岐するT字の交差点。
南東の角にあるのが伊予鉄バス森松営業所です。
そしてこちらが森松駅のあった駅跡となります。
森松線39
こちらが伊予鉄バス森松営業所の建物です。
廃線の翌年の1966年(昭和41年)に森松バスターミナルとして整備され、
駅舎のあった場所には森松出張所(当時)の建物が建てられました。

旧駅舎は1896年(明治29年)の路線開業時に作られた瓦葺屋根の和風の建物で
廃止後に取り壊されています。
森松線40
森松営業所の中の様子です。
バスターミナルながら出札窓口が作られており、
ベンチの置かれた待合室は鉄道駅を意識した作りとなっています。
森松線41
営業所の裏手のバスターミナルの敷地です。
現在は車庫としてバスが展開や滞留をしていますが、
森松線の営業当時にはこちら側に単式ホーム1面があり、
またその外側には列車が留置できる引き上げ線もありました。
森松線43
この裏手にも乗降の乗り場があり、乗客用のベンチが置かれています。
森松線42
敷地の奥には車庫の建物があり、
その奥は県道へと面して出入りができる様になっていました。
森松線44
県道193号線側から見た、ターミナル裏手の出入口の光景です。
森松線45
ターミナル裏手から県道を北に進むとすぐに森松営業所の表側に。



森松線46
こちらは森松線の区間のau 4G LTEでの電波エリアマップです。
ご覧の通り現在では全線が松山市内ですので全区間が電波県内となります。
ですのでどこからでも駅へのアクセスに困る事は無いでしょう。


そして廃線ですので現在列車が走っていないため、
アクセス及びチェックインの方法です。
森松線47
国道33号線(砥部道路)沿いに走っていた森松線には
営業当時から走っていたバスの並行路線があります。
森松線48
伊予鉄バスの森松・砥部線というのがそれで、
いよ立花駅から椿前(石井駅跡)を経て森松営業所(森松駅跡)まで走っています
いよ立花駅前から森松までで所要時間が13分、片道運賃310円で
ほぼ廃線跡をそのままバスが走ってくれています。
バスも15分間隔程度で運行していますので、いよ立花駅から実乗しても
往復で一時間弱で戻ってこれる
と思います。


どうしてもレーダーで取りたい、という場合は
伊予鉄道横河原線に乗る必要があります。
ここで注意をしたいのは、森松線の起点だったいよ立花駅でレーダーを飛ばしても
終点の森松駅はおろか石井駅にもレーダーは届かない
という点です。
4.4kmという短かい路線なのにレーダーが届かない理由は、
松山市の近郊という立地から、伊予鉄道の市内線の路面電車の電停が
石井駅よりも近くに大量にある為
です。

石井駅に関して言えば、いよ立花駅━福音寺駅間で
すぐにレーダー射程圏内(4~6駅程度)となります。
森松線49
そして森松駅までレーダーを届かせるには、
福音寺駅━北久米駅間でやっと射程圏内となります。
森松線50



近県の方でなければ、四国を攻略する場合には
JR四国の3日間有効のフリー切符を使うケースが多いと思います。
その場合、3日間で四国全県を制覇するにはかなりカツカツの行程となる為、
伊予鉄道を悠長に実乗している暇は無いと思います。

しかし、「また来る」とう選択肢を入れれば伊予電で松山市内を巡れますし、
周辺の観光や散策をする時間までできるでしょう。
ただの道路しか無い森松線をわざわざ森松駅まで行く方はそう多くは無いと思いますが、
せっかく駅メモに収録されいるのですから一度くらいは訪問してみるのも良いかと思います。


では。

三木鉄道三木線00
さて、お次は兵庫県の廃線である三木鉄道三木線についてです。


駅メモでは「三木線」と表記されているこの路線は
1916年(大正5年)に播州鉄道の支線として貨物輸送を目的として
厄神駅━別所駅間が開業したのが始まりとなります。
ちなみに播州鉄道の本線は現在のJR加古川線であり、
近隣の北条鉄道なども播州鉄道の支線でした。

翌年の1917年(大正6年)には三木駅までの全線が開業し、
播丹鉄道、国鉄三木線を経てJR西日本の三木線となります。


しかし元々が貨物を想定して作られた路線だけに
旅客の移動の流れとは当初からズレがあり、
近隣での神戸電鉄粟生線の開業、モータリゼーションの波などを受けて
元々少なかった旅客営業は更に減少します。

戦後にはメインとも言えた貨物取り扱いが廃止されて更に収益が悪化。
1968年(昭和43年)には赤字83線に早々に選定され、
国鉄の赤字増大を受けて1981年(昭和56年)には第一次特定地方交通線に指定。
1985年(昭和60年)に三木鉄道へと第三セクター転換されます。

しかし唯一の軸とも言えた国鉄時代の加古川線直通列車の加古川駅への旅客が
第三セクター転換によって無くなってしまい、
また転換によって運賃も倍加した結果、
転換初年の旅客輸送数は半減に近い数字に落ち込み劇的な減少となりました。
第三セクター転換は三木線にとっては完全に裏目となった訳です。


地元自治体の三木市が主体の三木鉄道は、乗客の利便性を図って経営の改善を目指し
宗佐駅、下石野駅、西這田駅、高木駅の4駅を新たに新設します。
しかし乗客の利用は伸びず転換交付金で赤字を埋める経営が続き、
交付金を使い果たした1996年(平成8年)以降は三木市の補填などで赤字を賄っていました。

そして三木市自体の収支も芳しく無い中で2006年(平成18年)には
三木市長選挙で三木鉄道の廃止を公約に掲げた候補が市長に当選
2008年(平成20年)4月1日に全線が廃止となりました。



また、冒頭の車両の写真はかつて三木鉄道を走っていた車両ミキ300-103ですが、
2009年(平成21年)に茨城のひたちなか海浜鉄道へと譲渡されて
現在も現役車両として稼動をしています。



三木鉄道三木線01
こちらはJR加古川線の厄神駅の西口駅舎の外観です。
駅は1913年(大正2年)に播州鉄道の開業によって国包駅として設置されたもので、
1916年(大正5年)に三木線の前身となる播州鉄道の支線が開業したことにより
駅名を厄神駅に改称しています。

駅名の由来は宗佐厄神八幡神社という厄除けの神社に因むものですが、
駅から神社までは徒歩で30分の距離があります。
三木鉄道三木線02
現在の駅舎は1999年(平成11年)に橋上駅舎に改築されたもので、
メインとなるこちらの西口の駅前も住宅地が迫っています。
駅舎の正面の道は県道207号厄神停車場線という県道ですが
ご覧の通り道幅こそあるものの生活道路の様相です。

駅のロータリーは東に150mほど離れた場所にあり、
恐らくは駅前の再開発が容易ではなかったのだと思われます。
三木鉄道三木線04
こちらは線路の反対側の南口です。
橋上駅舎となった為、通路と階段が新設されて作られた出口ですが
ご覧の通り階段の目の前は完全な住宅地となっています。
三木鉄道三木線05
その南口の目の前の道を東へと進むと、30mほどで
こちらの厄神駅を示す手書きの看板が設置されています。
看板の指し示す先はご覧の完全な路地です。
三木鉄道三木線06
路地を進むと線路際の広くなった場所に。
三木鉄道三木線07
開けた場所に出てすぐ左を見ると
こちらの厄神駅の東口があります。
先ほどの南口とは階段の上でつながっています。
三木鉄道三木線08
東口の前は舗装された広場のようになっており、
100mほど先に駅前のロータリーが設けられていました。
三木鉄道三木線03
駅の橋上へと上がってコンコースの様子です。
橋上駅舎ですので東西を連絡するコンコースの途中に改札があります。
三木鉄道三木線09
改札内も橋上のコンコースとなっており、
各ホームを連絡しています。
JR加古川駅の管理駅で業務委託の駅務員が駅務を行っています。
三木鉄道三木線10
橋上から見たホームの様子です。
駅はJR加古川線の相対式ホーム2面2線として運用されています。
三木鉄道三木線11
こちらが1番線ホームです。
加古川線下りの西脇市方面行きホームとなっています。
三木鉄道三木線12
そしてこちらが2番線ホームで、
加古川線の上りの加古川方面行きとなっています。
三木鉄道三木線13
この2番線ホームには、ホームの中央部に茶色のフェンスが
ホーム全体にわたって設置されています。
これはかつて2番線の反対側にあった3番線を区切る為のものです。
三木鉄道三木線14
橋上から2番線ホームを見ると、かつてはこのホームが島式であったことが分かります。
そして現在は線路が撤去されている旧3番線ホームこそが
かつて三木鉄道三木線が発着していた三木鉄道ホームだった
のです。
三木鉄道三木線15
旧3番線ホームの加古川方を見ると、枕木で車止めをされた線路が残っています。
これは三木鉄道が国鉄三木線だった当時、加古川線との直通運転を行っていた名残です。
三木鉄道三木線16
旧3番線から発着していた三木鉄道三木線は
西へとカーブしていく加古川線とは離れ、
まっすぐに北へと線路を伸ばしていました。
三木鉄道三木線18
駅構内の旧三木鉄道ホームの線路は撤去されています。
道床の砂利は残っているものの雑草が生えてしまっていました。
三木鉄道三木線17
旧三木鉄道ホームの3番線の北端です。


三木鉄道三木線19
厄神駅を出た三木鉄道の廃線跡はまっすぐ北に線路沿いを進みます。
廃線跡の左に併走する線路はJR加古川線の厄神車両基地です。
三木鉄道三木線20
車両基地脇に残る三木鉄道の0.5kmのキロポスト。
三木鉄道三木線21
厄神車両基地の北端の先には道路が東西に走っていますが、
その北端の目の前に三木鉄道の廃踏切の跡が残っていました。
三木鉄道三木線22
150mほど北に進むとご覧の廃線跡を横切る道が。
ここもかつての踏切跡でしたが、綺麗に舗装し直されて痕跡は残っていません。
しかしそのすぐ脇の用水には橋梁の基礎が残っていました。
三木鉄道三木線27
田んぼの中を進む三木鉄道の廃線跡。



三木鉄道三木線24
こちらは県道20号加古川三田線で、
神姫バスの国包東バス停付近の光景です。
三木鉄道三木線25
バス停脇の横道を南東へと入るとすぐに三木鉄道の廃線跡の築堤が見えます。
やや開けた築堤の手前にかつての国包駅の駅舎がありました。
隣の厄神駅からはちょうど1kmの距離にあたる場所です。
三木鉄道三木線23
営業当時は赤線で示したコンクリート製の小さな駅舎が置かれていました。
「カプセル駅舎」と呼ばれ1980年代に全国の無人駅で見られた形の駅舎ですが、
そのプロトタイプがこの国包駅の駅舎だったのだそうです。
三木鉄道三木線26
駅の開設は1916年(大正5年)の播州鉄道の厄神駅━別所駅間に開業によるもので、
鉄筋コンクリートの駅舎が作られたのは国鉄時代の1976年(昭和51年)のことでした。


三木鉄道三木線28
国包駅跡から東に80mほどで、
県道20号線と三木鉄道の廃線跡が交差をしています。
三木鉄道三木線29
廃線跡の築堤は北へと伸びているものの、
田畑の真っ只中であったり雑草が覆い茂っていて
直接廃線上を辿ることが難しくなってきます。
三木鉄道三木線30
廃線上に残る三木鉄道の跨道橋の橋台跡。
「宗佐避溢橋」というガーター橋が架かっていました。
このあたりは田んぼの中を鉄道の築堤が横切っている為、
増水時に田んぼの水位が上がった際に築堤が堤防として水を堰き止めてしまいます。
すると決壊や浸水の危険がある為、
水の逃げ道として切れ目を作る橋が「避溢橋(ひえつきょう)」なのだそうです。



三木鉄道三木線32
こちらは隣の国包駅跡からはほぼ直線で北東に550mほど進んだ付近です。
この場所に残る廃踏切の脇が次の宗佐駅の駅跡となります。
三木鉄道三木線31
駅はご覧の場所にありました。
鉄骨で組まれたホームに待合の上屋の屋根があるのみの駅で、
単式ホーム1面1線のみの棒線駅でした。

この付近の線路は1916年(大正5年)の播州鉄道開業時からありましたが
その後国鉄時代にもこの場所に駅は設置されていませんでした。
1985年(昭和60年)に国鉄三木線が第三セクターの三木鉄道へと転換されると
利用客の利便の為にいくつかの駅が新設。
こちらの宗佐駅も1986年(昭和61年)に新たに設置されました。
  三木鉄道三木線33
踏み切りを挟んだ駅と反対側の三木駅方面の廃線跡です。



三木鉄道三木線34
宗佐駅跡から東へと150mほどを走る県道84号宗佐土山線。
この県道と三木鉄道の廃線跡が交差しており、県道が跨線橋で廃線を跨いでいます。
この付近は小高い丘となっており、三木鉄道は切り通しを走っていました。
三木鉄道三木線35
県道から200mほど東の、切り通しの反対側からの光景です。
写真奥が県道のある厄神方となります。
この切り通しを境として加古川市と三木市の市境となります。
三木鉄道三木線38
その切り通しの出口からすぐの、道路を挟んだ北東側に次の駅がありました。


三木鉄道三木線37
こちらが下石野駅の駅跡です。赤線で示した付近にホームがありました。
(註:実際は築堤上に線路とホームがあったので、もう少し位置が高くなります)
三木線が第三セクター転換した翌年の1986年(昭和61年)に新設された駅で、
隣の宗佐駅と同日に設置されました。宗佐駅跡とは500mの距離にあります。
三木鉄道三木線36
駅は鉄骨のホームのみで駅舎は無く、
上屋があるのみの単式ホーム1面1線の棒線駅でした。
営業当時はこの付近の三木鉄道は築堤の上を走っており、
駅の南側の写真の道路付近には跨道橋が架かっていました。



三木鉄道三木線39
駅跡を背にして廃線後は引き続き北へと進みます。
三木鉄道三木線40
三木市に入った三木鉄道の廃線跡はご覧の通り舗装された遊歩道となります。
三木鉄道三木線48
この遊歩道は「別所ゆめ街道」と名づけられたもので、
三木鉄道の廃線跡を三木市が整備して2018年(平成30年)に完成したものです。

加古川市内の区間の廃線跡が線路をはがしただけの放置状態なのに対し、
三木市内の区間は築堤も削り取って道路として整備が成されています。
三木鉄道三木線41
そしてかつて三木鉄道の2.5キロポストのあった付近のすぐ先に、
踏切跡である市道を廃線跡の遊歩道が跨ぐ地点があります。
廃踏切跡には三木市のコミュニティバスの石野バス停が。
三木鉄道三木線42
その廃踏切跡の先へと遊歩道を進むとすぐに
レールが歩道脇に残された場所が現れます。
こちらはかつての三木鉄道の駅のあった付近となります。


三木鉄道三木線43
こちらは三木鉄道の廃線跡と併走するように走る
県道20号加古川三田線の三木市別所町下石野付近の光景です。
ご覧の場所がかつての石野駅の駅前となります。
三木鉄道三木線44
県道からの路地がかつての駅への連絡道路で
奥の線路沿いに駅舎がありました。
三木鉄道三木線45
こちらは三木市が2018年(平成30年)に作った旧石野駅休憩所です。
旧石野駅の駅舎を模して同じ場所に建てられたもの
現在は遊歩道の休憩所となっています。
三木鉄道三木線46
休憩所の中は土間にベンチが置かれているのみで
営業時の駅舎の様に券売窓口の跡などはありません。
三木鉄道三木線47
休憩所の壁には、石野駅の営業当時の航空写真が掲示されていました。
三木鉄道三木線49
ホーム側から見た休憩所の様子です。
営業当時と同じ位置に同じ長さであることから、
どうやらホームは現役時代のものを転用した様子です。
駅舎の外観は細かい点は違いますが営業当時に似せてはありました。
三木鉄道三木線51
ホーム前には駅の開業当時に建てられたという記念碑が。
三木鉄道三木線52
そして営業当時のホームの向かい側には、
列車が走っていた当時から廃ホームだった場所に
同じ形でレプリカのホームが設けられていました。
三木鉄道三木線50
三木駅方の東側から見た休憩所の様子です。
ホームからのスロープは営業当時には無かったものですが、
駅の外観はそれなりに似せて復元されていると思います。



三木鉄道三木線53
廃線跡の遊歩道は引き続き北東に向かってほぼまっすぐに続きます。
このあたりになると県道20号線は廃線跡からおよそ60~70mほどの距離で併走をしており、
県道から廃線の跡がよく見えます。
三木鉄道三木線54
田んぼの中を進む廃線跡。
三木鉄道三木線55
石野駅からはちょうど1kmほどの場所を流れる花尻川に架かる遊歩道の歩道橋です。
この場所には三木鉄道が走っていた時には花尻川橋梁というガーター橋が架かっていましたが
廃線後に遊歩道に整備された際に架け替えられています。
三木鉄道三木線56
引き続き田んぼの中を進む廃線跡。
遊歩道の舗装が復活し、緑色のテント倉庫が見えてくると次の駅跡となります。


三木鉄道三木線57
こちらが西這田駅の駅跡となります。
緑のテントの脇の赤線で示した場所にホームがありました。
駅は国鉄時代には設置されておらず、三木鉄道に第三セクター転換した後の
1986年(昭和61年)に新設された駅の一つとなります。
三木鉄道三木線58
こちらが駅付近の光景です。
二車線の広めの市道の踏切脇に駅は設置されていました。
三木鉄道三木線59
駅跡と市道の境にあるこちらの円形の手すりは
営業当時の駅ホームの入口にあったものです。
ホームは撤去されているものの、駅の遺構は残っていました。
三木鉄道三木線60
またスロープ状のコンクリートの脇にある手すりですが
こちらも駅の営業当時の写真にある手すりです。
この手すりが残っている事で、コンクリートのスロープとその奥の擁壁が
駅のホームの一部を残した転用
であることが分かります。


三木鉄道三木線61
引き続き県道20号線と併走しながら田んぼの中を進む廃線跡。
三木鉄道三木線62
登り12.5パーミルの勾配標が廃線跡の脇に残されています。
三木鉄道三木線63
こちらは営業時には這田川橋梁という橋が架かっていました。
現在は遊歩道用に歩道橋となっています。
三木鉄道三木線64
そして橋梁のすぐ東に次の駅の駅跡があります。
西這田駅跡からはちょうど1kmほどの距離の場所です。



三木鉄道三木線65
こちらが別所駅の駅跡に作られた旧別所駅休憩所です。
駅は1916年(大正5年)の路線開業時に設けられており、
2008年(平成20年)に鉄道が廃止された後も廃駅舎が残っていました。
そして三木市が2018年(平成30年)に廃線跡に遊歩道を整備した際に
石野駅と共に現役時代の駅舎を模した休憩場として建て替えられています。
三木鉄道三木線67
休憩所と旧歩道の間にあるホームは現役時代に使われていたものです。
整備が行われた際に残されており、ホーム前後にスロープが新設されています。
ホーム前の線路も現役時代のものが残されました。
三木鉄道三木線69
線路にある構内踏切は営業当時のものでは無く、
遊歩道として整備された際に休憩所と遊歩道の連絡用に設けられました。
三木鉄道三木線66
県道20号線沿いに生木神社という小さなお社があり、その真裏に駅跡があります。
営業当時は神社脇の民家との間の狭い路地から駅の敷地へと入る状態で
どこに駅があるのか分かりづらいと言われていたそうですが、
駅敷地も舗装されて駐車スペースとなり、
県道から車の出入りができる様に道も連絡され整備されています。
三木鉄道三木線70
休憩所の中の様子です。
土間にベンチのみが置かれているのは石野駅の休憩所と同じです。
三木鉄道三木線71
こちらの休憩所にも、壁に営業当時の航空写真が掲示されていました。
三木鉄道三木線72
そして駅前駐車場の駅舎の西の一角にある「旧播州鉄道 別所駅跡」の記念碑。
旧駅舎が解体される前から建っていました。
三木鉄道三木線68
三木駅方面へ東に続く廃線跡。



三木鉄道三木線73
これまで田んぼの中を進んできた廃線跡ですが、
別所駅跡を過ぎたあたりから沿線に民家が増え始めます。
国道175号線の高架橋をくぐる廃線跡。
三木鉄道三木線74
再び遊歩道の舗装が復活すると次の駅までもうすぐです。


三木鉄道三木線75
写真手前を横切る道路にはかつて踏切があり、
その向こう側が高木駅の跡地となります。
第三セクター転換後の1986年(昭和61年)に新しく作られた駅の一つであり、
単式ホーム1面1線で駅舎の無い上屋とホームのみの駅でした。
その為、隣の別所駅からは700mという駅間距離となります。
踏切脇からホームへはスロープで連絡されていました。


三木鉄道三木線76
高木駅跡から東の廃線跡は住宅地の中を進みますが、
道はアスファルトで舗装されています。
三木鉄道三木線77
そして高木駅跡から200mほどの位置にある橋梁の遺構です。
営業当時は高木川橋梁というガーター橋が架かっていました。
細いU字溝の川の脇にはもう一つ橋脚がありましたが橋と共に撤去されていました。
廃線跡の遊歩道では、他の橋は歩道橋に架け替えられていますが
この橋だけは撤去のみで遊歩道が途切れています。
三木鉄道三木線78
川を迂回して反対側へと回りこみ、引き続き廃線跡を東へ。
三木鉄道三木線79
高木川橋梁から250mほどで新たな橋が現れますが、
こちらは営業当時に三木橋梁が架かっていた場所です。
現在は歩道橋が架け替えられて設置されています。
三木鉄道三木線82
三木橋梁を渡ると廃線跡の両側はフェンスで囲われ、
レールの真ん中をコンクリートで舗装した通路が現れます。
橋の東側はかつての終点駅の駅構内にあたり、
敷地が橋から扇状に広がっていきます。
三木鉄道三木線80
フェンスには三木鉄道の廃止時の各駅の駅名標を模したミニチュアが
全駅分掛けられています。
三木鉄道三木線81
三木橋梁の東側は2010年(平成22年)6月に三木鉄道記念公園として整備され、
公園内には標識や信号機などが残されていますが
ミニチュア駅名標もその一環として展示されています。
三木鉄道三木線86
公園内に植樹されたエドヒガン桜に関する説明版。
三木鉄道三木線83
東に進むにつれて敷地の幅が広がって施設が揃い
公園の体裁が整っていきます。
ゲートボールのできるグラウンドはかつてのホームの跡地だそうです。
三木鉄道三木線85
信号機についての説明版です。
三木鉄道三木線84
こちらは公園に設置運営されている「三木鉄道サイクルトロッコ」です。
廃線のレールの上を走行できる遊具で、ボランティアスタッフで管理運営されています。
公園内の三木橋梁手前まで走行が可能となっています。


三木鉄道三木線87
こちらが三木駅の駅舎となります。
営業当時の駅舎が残されており、現在は鉄道公園の「三木鉄道ふれあい館」として
2010年(平成22年)より物産の販売や飲食休憩施設、展示などが行われています。
尚、鉄道公園として駅構内跡が整備された際に
旧駅舎の建物は15mほど南へと曳屋されています。

駅としては1917年(大正6年)の播州鉄道の終着駅としての開業で、
木造瓦葺平屋建ての駅舎は開業以来のものだそうです。
三木鉄道三木線88
駅舎の前は現在は公園内となりますがロータリーが整備されています。
三木鉄道三木線89
ロータリーには三木鉄道記念公園前バス停が。
三木鉄道三木線90
旧駅舎の西側に隣接してあるこちらの上屋は
鉄道公園の休憩場となっていますが、
元々は三木駅の駐輪場兼鉄道荷物取り扱い場でした。
上屋は営業当時のものがそのまま転用されているそうです。
三木鉄道三木線91
そして旧駐輪場のすぐ西隣にはこちらの車止めがあり、
その前に先ほどのサイクルトロッコの車庫があります。



三木鉄道三木線92
こちらは三木鉄道の沿線区間のau 4G LTEでの電波エリアマップです。
ご覧の通り神戸近郊の路線だった為、全区域が電波圏内となっています。
三木鉄道にトンネルがはありませんでしたので全区間でアクセスに支障はありません


また三木鉄道の近隣にはJR加古川線や神戸鉄道粟生線が走っていますので
これらの駅からレーダーを飛ばせば全線を取ることが可能
となっています。

しかし神戸近郊という比較的アクセスしやすい場所にある廃線で、
全長も6.6kmと短いことから徒歩でも1時間強あれば全線が巡れる路線となります。
せっかく位置ゲームをやっているのですから
比較的現地に行きやすいこちらの路線で廃線巡りデビューなどしてはいかがでしょうか。

では。


【写真撮影:2017年10月】

嘉手納線a29
沖縄県営鉄道嘉手納線の続きです。


その1(那覇駅━城間駅)はこちら


嘉手納線61
城間(ぐすくま)駅の駅跡である、
城間大通りと国道58号線の交差する交差点のすぐ南側の
ガソリンスタンド前です。
嘉手納線62
市道の城間大通りから国道58号線に合流し、
国道を北上していくルートがかつての嘉手納線の廃線跡となります。
すっかり国道として整備をされてしまっていますので
かつての鉄道の面影は全く残っていません。
嘉手納線63
城間大通りから国道の反対側を見ると
ご覧の様に米軍の軍用地の入口となるゲートが見えます。
この付近の国道58号線の西側一帯は「牧港補給地区(キャンプ・キンザー)」という
アメリカ海兵隊の兵站施設となっています。
嘉手納線64
この付近の地図が通り沿いにありましたので
嘉手納線の廃線跡と廃駅の位置を書き込んでみました。

城間交差点から国道58号線をそのまま進む嘉手納線の廃線跡。
東へと大きく国道がカーブを描いた先、
城間交差点からはおよそ1.5kmほどの場所で
嘉手納線は国道から反れて南側の市道へと入っていきます。
嘉手納線65
国道58号線から反れた廃線跡は住宅地に飲み込まれてしまっており
300mほどはその痕跡は消し去られています。
ですが地図上で廃線跡を辿ると写真の住宅地の道路が現れます。
この道こそがかつての嘉手納線の廃線跡を転用した道路なのです。
嘉手納線66
廃線跡の道と県道153号線の交差点付近の光景です。
赤線の様に嘉手納線の線路が走っていたと思われます。
嘉手納線67
そして交差点から北に30mほどの付近に
かつての嘉手納線の駅がありました。


嘉手納線68
こちらが牧港駅(駅メモ未収録)の駅跡です。
駅は1937年(昭和12年)に住民の請願駅として設置されました。
嘉手納線の開通は1922年(大正11年)ですが、鉄道開通前は
牧港の集落の住人達は駅の設置に反対したそうです。

しかし開通後に鉄道駅の有用性に気がついた住人達は
駅用地を提供するなどし、開通から14年後に新たにこの場所に駅ができたのです。
開業時は単式1面1線の無人駅だったそうで、
沖縄線までのわずか8年間だけ営業を行った駅でした。
嘉手納線69
駅跡の向かいにはご覧の「マチナトガー」と呼ばれる湧き水があります。
「マチナト」が「牧港」で、「ガー」がどうやら湧き水の水場の意味の様です。


嘉手納線70
牧港駅跡を過ぎて、廃線跡の道を進み
県道153号線(牧港バイパス)の交差点を越えます。
嘉手納線71
交差点から100mほどのところにガジュマルの樹が立っていますが
その付近が次の駅の駅跡となります。

嘉手納線72
こちらが大謝名駅(駅メモ未収録)の駅跡付近です。
ガジュマルの樹の向かいの商店付近がかつての駅だった場所だそうです。
1922年(大正11年)の路線開通時に設置された駅で営業時は無人駅でした。
嘉手納線73
駅跡の向かいにあるガジュマルの樹です。
根元の石灰石を根が絡むように抱え込んでいます。
嘉手納線敷設の際に石灰石が削られており切り通しのようになっています。


嘉手納線74
大謝名駅跡を過ぎて廃線後の道を北へ。
嘉手納線75
駅跡から70mほどで住宅地に飲み込まれて
廃線跡の道は途切れてしまっています。
この先は戦後まもなく住宅が立ち並んだ場所で
鉄道の遺構は消え去ってしまっています。
嘉手納線76
廃線跡に沿って脇の路地を進むも
すぐに住宅の敷地に阻まれて完全に進めなくなります。
この先の廃線跡の延長線上120mほどの場所に
国道58号線の大謝名交差点があり鉄道も交差点の場所を通っていました。

元々は県道だった国道58号線の大謝名交差点は
旧県道の大謝名三叉路にあたります。
戦前は鉄道が下を通り、県道はその上を橋でオーバーパスしていたそうです。
嘉手納線77
この付近については宜野湾市役所が歴史文化遺産マップを作成しています。
宇地泊地区のリーフレットには鉄道跡のルートが書き込まれおり、
嘉手納線の軽便鉄道跡地をたどるのに非常に役に立つのでご参照下さい。
参考
宜野湾市公式「歴史文化遺産マップ」
http://www.city.ginowan.okinawa.jp/organization/bunkaka/isanbunkarekishimap.html



国道58号線の大謝名交差点の西側は
宜野湾市の区画整理事業が行われている土地で、
再開発によって廃線跡は途切れ遺構は残っていません。
嘉手納線78
こちらは大謝名交差点から北に800mほどの地点で
宜野湾警察署の西側の裏手付近となります。
二車線ある区間は再開発の手が入っており
廃線跡であるかは概ねそうであるとしか言えません。
道幅が狭く1車線になる付近からは嘉手納線の跡地と見て間違い無い様です。
嘉手納線79
嘉手納線の跡地が転用された道路です。
この先が次の駅の駅跡となります。

嘉手納線80
こちらが真志喜駅(駅メモ未収録)の駅跡付近です。
嘉手納線の全線開通の翌年である1923年(大正12年)に与儀駅と同時に新設されました。
嘉手納線81
駅跡の向かいを見ると、木の根元の土が切り通しのようになっており
かつてここが線路であった痕跡をうかがい知る事ができます。

嘉手納線82
真志喜駅跡を過ぎて北に進むと
廃線跡は崖上を通過しており眼下に芋畑を見下ろしています。
ニトリの裏手を通過する廃線跡。
駅跡から1kmほどは廃線跡が道路として続いています。
嘉手納線83
大山地区の付近では廃線跡と道路がずれており、
線路のあった場所には住宅が立ち並んでいます。
その横を並走するように走る生活道路をいかにも廃線跡と思いがちですが
実際には嘉手納線はややずれて走っていた様です。
嘉手納線84
そしてゲートボール場として使われていた空き地を通り過ぎると
その先が次の駅跡付近となります。

嘉手納線85
こちらが大山駅(駅メモ未収録)の駅跡付近となります。
1922年(大正11年)の路線開業時にに開設された駅で、
単式ホーム2面2線で列車交換の可能な有人駅だったそうです。
貨物用の側線と蒸気機関車用の給水給炭設備まである大きな駅でしたが
周辺の集落からは離れた場所にあり不便で、
駅開設の翌年には南に真志喜駅が新設されています。
嘉手納線87
駅跡敷地の南端付近と思われる旧ゲートボール場の空き地。
嘉手納線88
駅跡に建つマンションの敷地の大きさを見ると
交換可能駅であったという当時の駅跡というのも納得がいきます。
嘉手納線89
大山駅の駅跡を過ぎた北側の光景です。
駅跡付近の生活道路が不自然に湾曲しているのが分かりますが、
このあたりが駅の敷地であったと考えると符号する形となっています。

廃線跡が再び道路と合流し、およそ800mほどはそのまま生活道路として進みます。
国道58号線の伊佐浜交差点付近で廃線跡は国道と合流。
隣の伊佐(北)交差点付近までおよそ300mほどは国道付近が廃線跡となります。

嘉手納線92
そしてこちらは国道58号線の北前付近。
廃線跡が国道から分岐した伊佐(北)交差点からは北へ700mほどの地点です。
国道58号線の東側一帯は米軍普天間基地となっており、
歩道橋のあるこの場所には普天間基地の第5ゲート(北前ゲート)があります。

嘉手納線の廃線跡は国道の東側を100mほど離れて並走しており、
この第5ゲート前の信号から150mほどの場所には嘉手納線の遺構が残っています。
嘉手納線90
ゲートの真東付近の嘉手納線の廃線跡です。
この付近は廃線跡を転用した道路と住宅が細切れに混在しています。
嘉手納線91
切り返して見た廃線跡付近。
赤線で示したのが線路があったと思われる場所です。
嘉手納線93
そして廃線跡の道は普天間川へとぶつかりますが、
こちらに嘉手納線の遺構があります。
嘉手納線94
普天間側に架かるその名も「軽便橋」です。
名前の通りこの橋はかつて嘉手納線の軽便鉄道の橋梁があった場所にある橋です。
嘉手納線95
橋の橋脚を見ると分かりますが、
この橋脚はかつて軽便鉄道の渡っていた鉄道橋を支えていたものです。
元々は「佐阿天原橋梁」の橋脚でしたが、
上に載る橋が1988年(昭和63年)に「軽便橋」として架け換えられました。

嘉手納線96
軽便橋の北側の先は当然ながら廃線跡となりますが、
ご覧の通り住宅が行く手を阻んでおり、再開発に飲み込まれてしまった様です。
それもそのはずで、普天間川(佐阿天川)の北側は沖縄線の後に米軍が接収。
「ハンビー飛行場」が建設され米軍基地となっていたのです。

1981年(昭和56年)にハンビー飛行場跡地が変換された後は
地主組合による土地区画整理事業で再開発が行われ、
ショッピングセンターなどが立ち並ぶ街となっています。
嘉手納線97
そしてこちらが旧ハンビー飛行場の敷地内だった、
かつての嘉手納線の駅跡付近の光景となります。
嘉手納線98
北谷駅(駅メモ未収録)とされる場所です。
1922年(大正11年)の路線開業時に作られた駅ですが、
ご覧の通りかつての駅跡は現在は6階建てのマンション敷地となっています。

嘉手納線の廃線跡の資料を辿ると「沖縄県介護保険広域連合」の建物付近が
かつての北谷駅の駅跡であるとされています。
嘉手納線99
しかし沖縄県介護保険広域連合のサイトを見ると
2013年(平成25年)に庁舎が移転していることが記されています。
庁舎のあった場所に建っているマンションの不動産情報を見ると
2016年(平成28年)3月築とありますので、
かつての庁舎は解体されてマンションとなった事が分かります。
嘉手納線a01
資料からマンションの手前付近が駅跡らしいですが、
米軍飛行場建設でブルドーザーで整地され、
戦後の再開発で区画整理となっていることから
遺構は残っておらず痕跡を見つけるのは不可能となっています。
駅がここだったという話は、恐らく飛行場敷地の地権者の登記などから
この場所に駅があった、とされているのだと思われます。
嘉手納線a02
駅跡のすぐ近くにある安良波ビーチ。
こちらも飛行場の返還後に整備された海岸です。


嘉手納線a03
北谷駅跡から北へ900mほどの北谷町美浜の市道付近の様子です。
すぐ東側には国道58号線が走っており、その国道の東側は
米軍のキャンプ桑江があって海軍病院などが置かれています。
嘉手納線の次の駅跡はこの先の中学校の前付近にありました。
嘉手納線a04
こちらが北谷町立桑江中学校の校門前付近です。
この付近にかつての桑江駅(駅メモ未収録)があったそうです。

他の駅同様に1922年(大正11年)の路線開業時に作られた駅ですが、
跡地の校門前の道路が2車線の広い道路であることからも分かる通り
復興と再開発の手が入っており、駅前後のルートを正確に手繰る痕跡はありません。


嘉手納線a05
中学校前の桑江駅跡を後にすると
廃線跡は国道58号線の西側を並走する様に北上していました。
国道に沿って築堤が築かれていて並走しながら線路は北に向かっていたそうですが
今ではその築堤の痕跡を見ることはできません。

嘉手納線a06
そしてこちらは桑江駅跡から北に2.4kmほどに位置する
国道58号線の北谷町砂辺付近の様子です。
ファミリーマート嘉手納第一ゲート前店が国道沿いにある付近と言うと
位置が分かりやすいでしょうか。
嘉手納線の廃線跡はこの南側付近で国道を斜めに横断するように走っていたそうです。
嘉手納線a08
コンビニの店名からも分かる通り、
ここには米軍嘉手納基地の第一ゲートがあります。
国道58号線の砂辺(南)交差点がゲートへの入口前の信号で、
ゲートへの道にはご覧の通り米軍基地との境界線がペイントされています。
このゲートの南側付近にかつての嘉手納線の駅があったそうです。
嘉手納線a09
平安山駅(駅メモ未収録)の駅跡付近の光景です。
駅名は平安山と書いて「へんざん」と読みます。
この駅も1922年(大正11年)の路線開業時に設けられています。

嘉手納線a10
嘉手納基地の第一ゲート前を過ぎて国道は北上していますが、
ここから先は嘉手納線の廃線跡は米軍基地の敷地内へと東に切れ込んで行きます。
当然ながら民間人がその跡を辿ることはできません。

嘉手納線a11
こちらは第一ゲートから国道58号線を2.1kmほど北へと進んだ地点です。
近くにはローソンネーブルカデナ店があり、
「奥まで101km」の国道の距離標があります。
(※奥は国頭村奥の事で国道58号線の沖縄県内の北端)
この場所から東へおよそ500mほど嘉手納基地の中に入った場所が
地図上では野国駅(駅メモ未収録)の駅跡のあった場所となります。

資料を見る限りでは駅跡付近は嘉手納基地の滑走路となっていますので
恐らく駅の痕跡は全く残ってはいないでしょう。


嘉手納線a12
こちらは野国駅跡から1.3knほど北に位置する
嘉手納町役場の前の光景です。
嘉手納線a13
そしてこちらが嘉手納町役場の建物。
嘉手納線a14
役場の前の道を北へと進むとすぐにモニュメントがあります。
嘉手納線a15
こちらが沖縄軽便鉄道嘉手納線の嘉手納駅の跡地を示すモニュメントです。
嘉手納駅は駅メモに登録されている駅ですので
この駅を取らなければ沖縄県はコンプリートできません

駅は1923年(大正12年)の嘉手納線開業時に北端の終着駅として設置されたもので、
2面2線のホームを持つ有人駅であり、
側線も有して貨物の取り扱いも多い有人駅だったそうです。
嘉手納線a16
台座に刻まれた嘉手納線のと嘉手納駅の説明文。
嘉手納線a17
同じく台座にある嘉手納駅の営業時の写真です。
嘉手納線a18
モニュメントの先を北へと進むと「ロータリー広場」が見えてきます。
嘉手納線a19
広場の前にある看板。
嘉手納線a23
東側には再開発で作られたロータリープラザという嘉手納町の施設が建っており、
防衛省沖縄防衛局や入国管理局が入っています。
嘉手納線a20
こちらが広場の様子であり、嘉手納駅の駅跡とされている場所となります。
元々はこの広場は「嘉手納ロータリー」という
直径約120mの日本一の大きさのロータリーの中央部でした。

ロータリーは戦後の米軍統治時代に軍用道路1号線の一部として
米軍によって作られたもので、
作られた場所が嘉手納駅があった場所だったそうです。
嘉手納線a22
広場から役場までは直線の道が伸びていますが、
嘉手納駅跡の石碑付近から南はかつての国道58号線の旧道です。
2007年(平成19年)に現在のルートに国道58号線が付け替えられた際に
旧道の東側半分が削られ道幅が狭くなりました。

石碑より広場側はかつての嘉手納ロータリーの内側であり、
駅跡も写真の付近ではないかという話もあります。
ですが一旦米軍によって整地されてしまっている為
おおよその位置を推測するしか無いのが現状となります。
嘉手納線a24
こちらは嘉手納町役場の前にあった観光案内版の地図です。
嘉手納線a25
この地図に嘉手納線の通っていたとされるルートを書き込んでみました。



嘉手納線a26
こちらが嘉手納線の城間駅━嘉手納駅間の廃線跡の、
au 4G LTEでの電波エリアマップとなります。
ご覧の通り全ての区間で電波状態は良好ですのでアクセスに困る事は無いでしょう。

そして駅メモで嘉手納線の廃駅として収録されているのは
与儀駅、城間駅、嘉手納駅の3つのみですので
城間駅と嘉手納駅の中間地点がお互いの駅の境界となります。
この境界線付近にちょうどあるのが北谷駅跡となります。

ではレーダーを使用するとどうなるのか。
嘉手納線a27
こちらは嘉手納線の真志喜駅跡付近でのレーダーの射程です。
駅メモで真志喜駅は登録されていない為、チェックイン先は城間駅となりますが。

そしてこの真志喜駅付近でチェックインをすると
ちょうど12駅目で嘉手納駅がレーダー射程に入っているのが分かります。
通常時でのMAXの12駅射程では真志喜駅跡付近からが射程圏の様です。
この真志喜駅は嘉手納線で北谷駅からは南に2駅隣で
距離にしておよそ3kmといったところに位置しています。

ちなみになつめスキルを使って+2駅の14駅射程でも
やはり真志喜駅跡付近がレーダー射程の境界
となります。
スキルを使っても射程圏がほぼ変わらないのは
射程ボーダー付近であるゆいレールの駅間距離が近すぎる為
です。


そして2018年(平成30年)11月30日に駅メモでは
レーダーブースターというアイテムが実装
されました。
「レーダーの検知数を+4駅」というアイテムの登場により、
レーダーMAX(12駅)+なつめスキル(+2駅)+ブースター使用(+4駅)で
射程距離が最大18駅まで伸びる
というアイテムとなります。

これによって元々全県で18駅しか無い沖縄県は
県内のどこでアクセスしても全県の駅がレーダー射程圏内という事態となりました。

これまでは「どんなアイテムを使っても嘉手納駅だけは取れない」という状態で
「駅数は少ないながらも難易度は低くない」とされていた沖縄県コンプが
ブースター登場で途端にイージーになったということ
です。
那覇空港駅などは外国からのアクセスで取れる駅として有名ですから
「世界中から沖縄県がコンプできる」という時代となった訳です。


まあ、これまでも飛行時に携帯電波の使えないLCCではなく、
JALなど機内Wi-Fiの使える旅客機で沖縄北方の海上でアクセスすれば
通常チェックインで嘉手納駅が取れていた訳ですから
「何をいまさら」という意見もあるかと思います。
嘉手納線a28
しかし、個人的にはこの嘉手納駅跡の碑を肉眼で見た人こそが
真の沖縄マスター
なんじゃないか、と思っていたりします。


では。

嘉手納線60
続いては沖縄県営鉄道嘉手納線についてです。

駅メモでは単に「嘉手納線」として登録されているこの路線は、
1922年(大正11年)に沖縄県営鉄道の2番目の路線として開業した鉄道です。
古波蔵駅━ 嘉手納駅間の22.4kmが正式な嘉手納線の区間でしたが、
先に営業をしていた与那原線に乗り入れて全列車が那覇駅まで運行をしていました。

廃線の駅として駅メモで登録されているのは
与儀駅、城間駅、嘉手納駅の3駅のみ
ですが、
その廃線跡を巡りこちらでは那覇駅━嘉手納駅間を見ていきたいと思います。



嘉手納線01
こちらは沖縄都市モノレールの旭橋駅のすぐ南の列車内から見た光景です。
建設中の青いシートに覆われているのは建設中の那覇バスターミナルです。
(註:撮影は2018年4月で、那覇バスターミナルは同年10月に開業済み)

中央を走る国道330号線を挟んでバスセンターの向かいにあるのは
リーガロイヤルグラン沖縄というホテルの建物です。 嘉手納線02
旭橋駅からホテルへのデッキの、
ちょうど写真の真下あたりにかつて那覇駅(駅メモ未収録)
ここにあった事を示す碑があります。
嘉手納線03
歩道へと降りて、仮設のチケット売り場の向こう側へとまわると
旭橋交差点の北東角の歩道にご覧のモニュメントがありました。
嘉手納線12
ちょうどモニュメントの横に案内地図があり
この場所を示してくれていました。
嘉手納線04
モニュメントに記された歴史や写真です。
この碑の真裏あたりがかつて那覇駅の転車台があった付近だそうです。
嘉手納線05
こちらは碑にあった沖縄県営鉄道の路線図です。
嘉手納線06
那覇駅の構内配線図もあったので、赤でモニュメントの位置を示しました。
嘉手納線07
こちらは旭橋駅の東側、モニュメントからは北西の
バスセンターの北西側に面する道路の光景です。
嘉手納線08
ここに「仲島の大石(なかじまのうふいし)」という県指定の天然記念物があります。
かつては海岸の海の上にあったという大石は、
近隣住民に縁起の良い岩として大切にされてきたものです。
那覇駅が営業していた時には駅構内の機関庫の北に位置していたもので、
場所の変わらぬその存在からかつての那覇駅の位置関係が分かるという目印なのです。
嘉手納線09
かつての廃駅跡である那覇バスセンターの敷地から、
嘉手納線はおおよそではありますが赤線の様に東南へと進んでいました。

嘉手納線10
バスセンターの東の先にある国道330号線の旭町交差点。
国道はここから壺川通りとなって南へとカーブを描きますが、
県営鉄道の線路もおおよそ赤線のように
国道と並走するように南へと曲がっていったと考えられます。
嘉手納線11
マンションの裏手の、国道の東側を並走している市道を南下。
この道が廃線跡そのものかは定かではありませんが、
残された遺構などからおおよそこの道か
または沿うように県営鉄道の線路は南下したと思われます。
嘉手納線13
市道を南下すると阿手川公園の前を通過してすぐに
ご覧のように道が左に曲がって正面が突き当たっています。
嘉手納線15
県営鉄道の線路はこの正面のビル付近を
そのまま南へと直線で走っていたと思われます。
ビルが建っていることからも分かる通り
ここから先は住宅が立ち並び完全に鉄道の面影は残っていません。

嘉手納線14
そして市道が突き当たった場所からおよそ南に300mの、
廃線跡と思われる市道を延長した先にあるのが
こちらの壺川東公園となります。
嘉手納線16
公園にはご覧の通りディーゼル機関車と線路があります。
機関車は大東島で戦後サトウキビ運搬に使われていたものですが、
下の線路は沖縄県営鉄道で使われていたものなのです。
嘉手納線17
ブロックで作られた碑に記されている通り、
かつての沖縄県営鉄道がこの公園を通っており、
公園造成工事の際にレールが出土したことから
鉄道が走っていた場所にレールを復元
したそうです。
嘉手納線18
公園から廃線跡はさらに南へ。


嘉手納線19
こちらは壺川東公園から南の廃線延長上におよそ400mほどの場所で
国道330号線が西へと進路を変え壺川通りから与儀大通りと名を変えて、
新たに国道507号線が終点となっている古波蔵交差点のすぐ北の地点です。
中央に立つビルは古波津商事ビルです。
嘉手納線20
この古波津商事ビルの北西の、駐車場の片隅にご覧の通り
橋の橋台が残っているのです。
嘉手納線21
橋台のすぐ北側の住宅地の路地です。
恐らく橋台の位置からしてご覧の様に線路が走っていたことでしょう。
嘉手納線22
古波蔵交差点の歩道橋から見た古波津商事ビル付近の光景です。
かつてこのビルの付近に沖縄県営鉄道の古波蔵駅(駅メモ未収録)がありました。
嘉手納線23
交差点の国道330号線の左折路から
古波津商事ビルの入口前へと通じる道があります。
嘉手納線24
こちらが古波津商事ビルの前の駐車場です。
嘉手納線25
ビルの右側、方角では北となる一体が空き地となって駐車場になっていますが
かつてここにサトウキビから精製するアルコール工場があったそうで、
古波蔵駅は古波津商事ビルと工場跡の空き地の間にあったそうです。
ちょうど写真中央の電柱の向こう側あたりでしょうか。
嘉手納線26
県営鉄道の線路が通っていたと思われる場所を赤線で示しました。
多少のズレがあると思いますが概ねはご覧の感じで走っていた様です。
嘉手納線27
ちょうど駐車場前の国道沿いにご覧の看板がありましたので
廃線跡と駅の場所を書き込んでみました。


嘉手納線28
こちらは古波蔵交差点から国道330号線を北に1kmほど進んだ
那覇警察署の付近の光景です。
警察署のすぐ北には与儀交差点があります。
嘉手納線29
こちらが与儀交差点。国道330号線と県道222号線(市民会館通り)が交差しており、
国道はこの交差点で与儀大通りからひめゆり通りへと名前を変えます。
この付近にかつての沖縄県営鉄道の与儀駅があったそうです。
尚、与儀駅は嘉手納線の駅として駅メモで収録されています

与儀駅は1923年(大正12年)に設置された駅で、
前年の1922年(大正11年)に嘉手納線が開業した一年後に作られた駅となります。
当時は単式1面1線の無人駅だったそうです。
嘉手納線30
こちらがおおよその沖縄県営鉄道の廃線跡と
与儀駅があったとされる付近の光景です。
駅は与儀交差点から与儀公園の入口付近にあったそうです。
嘉手納線31
与儀交差点に面した与儀公園の入口です。
嘉手納線32
こちらはひめゆり通り側の公園入口ですが、
シーサーに挟まれた入口の目の前に非常に興味深いものがあります。
嘉手納線33
ご覧のD51形蒸気機関車です。
D51-222という車両で小倉工場で生産され九州を走り、
最後は南延岡機関区に所属をしていた車両で、
D51の中では「標準形」と呼ばれる一番ポピュラーな形をしています。


嘉手納線はかつては築堤の上を走っていたそうですが、
戦後の復興で築堤は崩されて現在の国道330号線と姿を変えました。
ですのでこの付近では国道330号線が廃線跡ということになります。
嘉手納線34
与儀駅跡からの国道は「ひめゆり通り」と名を変えますが、
その由来となっているのが、駅跡から北に800mほどにあるこちらのひめゆり橋となります。

かつてはここに嘉手納線の橋が架かっており鉄道が走っていました。
その脇には人が一人渡っても揺れるという人道橋があり
ひめゆりの由来である県立第一高等女学校の生徒が通学に使っていました。

ある大雨の日にこの橋を渡っていた女学生が安里川に転落するという事故があり、
安全の為に女学生の名をとった木橋に架け替えられました。
そして昭和初期に更に丈夫な橋へと架け替えられて「ひめゆり橋」となり
現在へとその名が受け継がれています。
参考
栄町市場商店街「栄町市場について」
http://sakaemachi-ichiba.net/about.html

嘉手納線35
そして廃線跡であるひめゆり通りを、ひめゆり橋から100mほど進むと
沖縄都市モノレールの安里駅が見えてきます。
嘉手納線37
こちらの高架駅がモノレールの安里駅です。
かつての沖縄県営鉄道の安里駅(駅メモ未収録)
奇しくもモノレールの安里駅とほぼ同じ場所
にあります。
嘉手納線38
こちらはモノレールの安里駅ホームから見た駅の東側の光景です。
正面に見える「りうぼう」というスーパーの敷地付近が
「ひめゆり学徒隊」で有名な沖縄県立第一高等女学校の跡地となります。
嘉手納線36
モノレール駅の東側の光景に県営鉄道の線路跡と
駅があったと思われる付近を書き込みました。
この付近は沖縄戦と戦後の復興で鉄道の痕跡が残っておらず
駅の正確な位置は不明なのです概ねの目安と考えて下さい。


嘉手納線39
安里駅から北も嘉手納線は、
現在の国道330号線と同じルートを走っていました。
写真はモノレールのおもろまち駅で、
安里駅からはおよそ800mほど北に位置しています。
嘉手納線40
こちらはおもろまち駅の西側の光景ですが、
ここには沖縄戦最大の激戦であったシュガーローフ(安里52高地)がありました。
米軍が「シュガーローフ」「ハーフムーン」と呼んだ丘陵の間を
嘉手納線(現在の国道330号線上にあった)は切り通しで敷設されていました。
嘉手納線41
おもろまち駅から600mほど北上した国道330号線の真嘉比交差点付近です。
まだ嘉手納線と国道のルートは重なっています。
嘉手納線42
さらに400mほど北上した、こちらはモノレールの古島駅の南側付近の光景です。
この付近の嘉手納線の廃線跡は、戦後の復興開発の波に飲み込まれてしまっており
現在ではその正確な位置を把握することは困難です。
ですが過去の文献や、廃線の線形や地形などから推測すると
おおよそこの付近で嘉手納線の線路は写真左手の西側へと
国道から反れて敷設されていたはずです。
嘉手納線43
そしてこちらは古島駅からおよそ北西に300mほどの場所にある
県道82号線(環状2号)と県道251号線(パイプライン通り)の交る古島交差点です。
住宅や道路となり完全に跡形もありませんが
赤線で示したように嘉手納線はこの交差点まで敷設されていました。
嘉手納線44
古島交差点から見た北側への光景です。
ここから北の県道251号線が沖縄では「パイプライン」と呼ばれており、
沖縄本土復帰までは道路下に米軍の嘉手納基地などへの送油管が通っていました。
嘉手納線45
そのパイプライン通りを250mほど進むと次の駅跡の地点となります。
嘉手納線47
県道251号線である事を示す標識。
「内間」の地名が書かれています。

嘉手納線46
こちらが嘉手納線の内間駅(駅メモ未収録)があったとされる付近の光景です。
内間駅は1922年(大正11年)の嘉手納線開業時の駅で、
当初は無人駅だったものの後に有人駅となっています。
嘉手納線48
駅跡の前に建つ日本年金機構の浦添社会保険事務所。


嘉手納線49
県道の脇に設置されている「パイプライン通り」の標識です。
嘉手納線50
内間駅後からしばらく、嘉手納線はパイプライン通りを
廃線跡として北上をしていきます。
1.8kmほど進んだこちらは通り沿いにある屋富祖郵便局です。
ご覧の通りコンビニを併設している郵便局です。
嘉手納線51
そして通りを挟んだ郵便局の向かいには
琉球バスの大平特別支援学校前停留場があります。
嘉手納線52
停留場の名の通りバス停の裏は特別支援学校の敷地なのですが、
歩道脇の敷地の脇に嘉手納線の遺構が残っています
嘉手納線53
こちらがこの場所で1991年(平成3年)の街路工事で出土した
嘉手納線の線路のレール
です。
嘉手納線54
一緒に立っている石の三角杭はかつてこの道路に
パイプラインが走っていた当時に、軍用地の境界を示す為のものです。
当初はここに2本復元されていたはずですが、
現在では1本のみが残っていました。
嘉手納線55
そして支援学校の目の前の交差点がY字に分岐をしているのですが、
嘉手納線はこの交差点でパイプライン通りから
城間大通りという市道へと曲がっていたそうです。
嘉手納線56
廃線跡の市道を北西へと進みます。

嘉手納線57
城間大通りをちょうど1kmほど進むと国道58号線へとぶつかりますが、
ここにある城間交差点の角にあるガソリンスタンド(エッソ石油エクスプレス城間SS)付近が
嘉手納線の駅である城間駅の駅跡となります。
駅メモでは廃線の嘉手納線の駅は3駅しか登録されていませんが、
那覇側から数えてこの城間駅は2つ目の登録駅
となりますので
チェックインを忘れないように気をつけて下さい。

城間は(ぐすくま)と読み、城間駅は1922年(大正11年)の嘉手納線開業時に設置されました。
無人駅も多かった嘉手納線でこの駅は17.67坪の駅舎を持つ有人駅だったそうです。


嘉手納線58
こちらは嘉手納線の那覇駅から城間駅までの区間での
au 4G LTEでの電波エリアマップです。
ご覧の通りこの付近は全ての場所が電波圏内となっていますので
駅へのチェックインに困る事は無い
でしょう。

嘉手納線を地図に青線で示し、登録駅の与儀駅と城間駅の場所も
併せて地図上に示しましたのでご参照下さい。

嘉手納線59
こちらは沖縄都市モノレール(ゆいレール)で一番北にある
古島駅からのレーダーエリア範囲を示した図です。
射程8で与儀駅、射程11で城間駅に届くのがご覧いただけると思います。


全長22.4kmの嘉手納線、那覇駅━古波蔵駅間の1.2kmを足せば23.6kmの路線です。
那覇駅━城間駅間は8.4kmの営業距離でおおよそ半分といったところでしょう。
城間駅━嘉手納駅間の嘉手納線北部についてはその2に続きたいと思います。

では。

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