廃線

三木鉄道三木線00
さて、お次は兵庫県の廃線である三木鉄道三木線についてです。


駅メモでは「三木線」と表記されているこの路線は
1916年(大正5年)に播州鉄道の支線として貨物輸送を目的として
厄神駅━別所駅間が開業したのが始まりとなります。
ちなみに播州鉄道の本線は現在のJR加古川線であり、
近隣の北条鉄道なども播州鉄道の支線でした。

翌年の1917年(大正6年)には三木駅までの全線が開業し、
播丹鉄道、国鉄三木線を経てJR西日本の三木線となります。


しかし元々が貨物を想定して作られた路線だけに
旅客の移動の流れとは当初からズレがあり、
近隣での神戸電鉄粟生線の開業、モータリゼーションの波などを受けて
元々少なかった旅客営業は更に減少します。

戦後にはメインとも言えた貨物取り扱いが廃止されて更に収益が悪化。
1968年(昭和43年)には赤字83線に早々に選定され、
国鉄の赤字増大を受けて1981年(昭和56年)には第一次特定地方交通線に指定。
1985年(昭和60年)に三木鉄道へと第三セクター転換されます。

しかし唯一の軸とも言えた国鉄時代の加古川線直通列車の加古川駅への旅客が
第三セクター転換によって無くなってしまい、
また転換によって運賃も倍加した結果、
転換初年の旅客輸送数は半減に近い数字に落ち込み劇的な減少となりました。
第三セクター転換は三木線にとっては完全に裏目となった訳です。


地元自治体の三木市が主体の三木鉄道は、乗客の利便性を図って経営の改善を目指し
宗佐駅、下石野駅、西這田駅、高木駅の4駅を新たに新設します。
しかし乗客の利用は伸びず転換交付金で赤字を埋める経営が続き、
交付金を使い果たした1996年(平成8年)以降は三木市の補填などで赤字を賄っていました。

そして三木市自体の収支も芳しく無い中で2006年(平成18年)には
三木市長選挙で三木鉄道の廃止を公約に掲げた候補が市長に当選
2008年(平成20年)4月1日に全線が廃止となりました。



また、冒頭の車両の写真はかつて三木鉄道を走っていた車両ミキ300-103ですが、
2009年(平成21年)に茨城のひたちなか海浜鉄道へと譲渡されて
現在も現役車両として稼動をしています。



三木鉄道三木線01
こちらはJR加古川線の厄神駅の西口駅舎の外観です。
駅は1913年(大正2年)に播州鉄道の開業によって国包駅として設置されたもので、
1916年(大正5年)に三木線の前身となる播州鉄道の支線が開業したことにより
駅名を厄神駅に改称しています。

駅名の由来は宗佐厄神八幡神社という厄除けの神社に因むものですが、
駅から神社までは徒歩で30分の距離があります。
三木鉄道三木線02
現在の駅舎は1999年(平成11年)に橋上駅舎に改築されたもので、
メインとなるこちらの西口の駅前も住宅地が迫っています。
駅舎の正面の道は県道207号厄神停車場線という県道ですが
ご覧の通り道幅こそあるものの生活道路の様相です。

駅のロータリーは東に150mほど離れた場所にあり、
恐らくは駅前の再開発が容易ではなかったのだと思われます。
三木鉄道三木線04
こちらは線路の反対側の南口です。
橋上駅舎となった為、通路と階段が新設されて作られた出口ですが
ご覧の通り階段の目の前は完全な住宅地となっています。
三木鉄道三木線05
その南口の目の前の道を東へと進むと、30mほどで
こちらの厄神駅を示す手書きの看板が設置されています。
看板の指し示す先はご覧の完全な路地です。
三木鉄道三木線06
路地を進むと線路際の広くなった場所に。
三木鉄道三木線07
開けた場所に出てすぐ左を見ると
こちらの厄神駅の東口があります。
先ほどの南口とは階段の上でつながっています。
三木鉄道三木線08
東口の前は舗装された広場のようになっており、
100mほど先に駅前のロータリーが設けられていました。
三木鉄道三木線03
駅の橋上へと上がってコンコースの様子です。
橋上駅舎ですので東西を連絡するコンコースの途中に改札があります。
三木鉄道三木線09
改札内も橋上のコンコースとなっており、
各ホームを連絡しています。
JR加古川駅の管理駅で業務委託の駅務員が駅務を行っています。
三木鉄道三木線10
橋上から見たホームの様子です。
駅はJR加古川線の相対式ホーム2面2線として運用されています。
三木鉄道三木線11
こちらが1番線ホームです。
加古川線下りの西脇市方面行きホームとなっています。
三木鉄道三木線12
そしてこちらが2番線ホームで、
加古川線の上りの加古川方面行きとなっています。
三木鉄道三木線13
この2番線ホームには、ホームの中央部に茶色のフェンスが
ホーム全体にわたって設置されています。
これはかつて2番線の反対側にあった3番線を区切る為のものです。
三木鉄道三木線14
橋上から2番線ホームを見ると、かつてはこのホームが島式であったことが分かります。
そして現在は線路が撤去されている旧3番線ホームこそが
かつて三木鉄道三木線が発着していた三木鉄道ホームだった
のです。
三木鉄道三木線15
旧3番線ホームの加古川方を見ると、枕木で車止めをされた線路が残っています。
これは三木鉄道が国鉄三木線だった当時、加古川線との直通運転を行っていた名残です。
三木鉄道三木線16
旧3番線から発着していた三木鉄道三木線は
西へとカーブしていく加古川線とは離れ、
まっすぐに北へと線路を伸ばしていました。
三木鉄道三木線18
駅構内の旧三木鉄道ホームの線路は撤去されています。
道床の砂利は残っているものの雑草が生えてしまっていました。
三木鉄道三木線17
旧三木鉄道ホームの3番線の北端です。


三木鉄道三木線19
厄神駅を出た三木鉄道の廃線跡はまっすぐ北に線路沿いを進みます。
廃線跡の左に併走する線路はJR加古川線の厄神車両基地です。
三木鉄道三木線20
車両基地脇に残る三木鉄道の0.5kmのキロポスト。
三木鉄道三木線21
厄神車両基地の北端の先には道路が東西に走っていますが、
その北端の目の前に三木鉄道の廃踏切の跡が残っていました。
三木鉄道三木線22
150mほど北に進むとご覧の廃線跡を横切る道が。
ここもかつての踏切跡でしたが、綺麗に舗装し直されて痕跡は残っていません。
しかしそのすぐ脇の用水には橋梁の基礎が残っていました。
三木鉄道三木線27
田んぼの中を進む三木鉄道の廃線跡。



三木鉄道三木線24
こちらは県道20号加古川三田線で、
神姫バスの国包東バス停付近の光景です。
三木鉄道三木線25
バス停脇の横道を南東へと入るとすぐに三木鉄道の廃線跡の築堤が見えます。
やや開けた築堤の手前にかつての国包駅の駅舎がありました。
隣の厄神駅からはちょうど1kmの距離にあたる場所です。
三木鉄道三木線23
営業当時は赤線で示したコンクリート製の小さな駅舎が置かれていました。
「カプセル駅舎」と呼ばれ1980年代に全国の無人駅で見られた形の駅舎ですが、
そのプロトタイプがこの国包駅の駅舎だったのだそうです。
三木鉄道三木線26
駅の開設は1916年(大正5年)の播州鉄道の厄神駅━別所駅間に開業によるもので、
鉄筋コンクリートの駅舎が作られたのは国鉄時代の1976年(昭和51年)のことでした。


三木鉄道三木線28
国包駅跡から東に80mほどで、
県道20号線と三木鉄道の廃線跡が交差をしています。
三木鉄道三木線29
廃線跡の築堤は北へと伸びているものの、
田畑の真っ只中であったり雑草が覆い茂っていて
直接廃線上を辿ることが難しくなってきます。
三木鉄道三木線30
廃線上に残る三木鉄道の跨道橋の橋台跡。
「宗佐避溢橋」というガーター橋が架かっていました。
このあたりは田んぼの中を鉄道の築堤が横切っている為、
増水時に田んぼの水位が上がった際に築堤が堤防として水を堰き止めてしまいます。
すると決壊や浸水の危険がある為、
水の逃げ道として切れ目を作る橋が「避溢橋(ひえつきょう)」なのだそうです。



三木鉄道三木線32
こちらは隣の国包駅跡からはほぼ直線で北東に550mほど進んだ付近です。
この場所に残る廃踏切の脇が次の宗佐駅の駅跡となります。
三木鉄道三木線31
駅はご覧の場所にありました。
鉄骨で組まれたホームに待合の上屋の屋根があるのみの駅で、
単式ホーム1面1線のみの棒線駅でした。

この付近の線路は1916年(大正5年)の播州鉄道開業時からありましたが
その後国鉄時代にもこの場所に駅は設置されていませんでした。
1985年(昭和60年)に国鉄三木線が第三セクターの三木鉄道へと転換されると
利用客の利便の為にいくつかの駅が新設。
こちらの宗佐駅も1986年(昭和61年)に新たに設置されました。
  三木鉄道三木線33
踏み切りを挟んだ駅と反対側の三木駅方面の廃線跡です。



三木鉄道三木線34
宗佐駅跡から東へと150mほどを走る県道84号宗佐土山線。
この県道と三木鉄道の廃線跡が交差しており、県道が跨線橋で廃線を跨いでいます。
この付近は小高い丘となっており、三木鉄道は切り通しを走っていました。
三木鉄道三木線35
県道から200mほど東の、切り通しの反対側からの光景です。
写真奥が県道のある厄神方となります。
この切り通しを境として加古川市と三木市の市境となります。
三木鉄道三木線38
その切り通しの出口からすぐの、道路を挟んだ北東側に次の駅がありました。


三木鉄道三木線37
こちらが下石野駅の駅跡です。赤線で示した付近にホームがありました。
(註:実際は築堤上に線路とホームがあったので、もう少し位置が高くなります)
三木線が第三セクター転換した翌年の1986年(昭和61年)に新設された駅で、
隣の宗佐駅と同日に設置されました。宗佐駅跡とは500mの距離にあります。
三木鉄道三木線36
駅は鉄骨のホームのみで駅舎は無く、
上屋があるのみの単式ホーム1面1線の棒線駅でした。
営業当時はこの付近の三木鉄道は築堤の上を走っており、
駅の南側の写真の道路付近には跨道橋が架かっていました。



三木鉄道三木線39
駅跡を背にして廃線後は引き続き北へと進みます。
三木鉄道三木線40
三木市に入った三木鉄道の廃線跡はご覧の通り舗装された遊歩道となります。
三木鉄道三木線48
この遊歩道は「別所ゆめ街道」と名づけられたもので、
三木鉄道の廃線跡を三木市が整備して2018年(平成30年)に完成したものです。

加古川市内の区間の廃線跡が線路をはがしただけの放置状態なのに対し、
三木市内の区間は築堤も削り取って道路として整備が成されています。
三木鉄道三木線41
そしてかつて三木鉄道の2.5キロポストのあった付近のすぐ先に、
踏切跡である市道を廃線跡の遊歩道が跨ぐ地点があります。
廃踏切跡には三木市のコミュニティバスの石野バス停が。
三木鉄道三木線42
その廃踏切跡の先へと遊歩道を進むとすぐに
レールが歩道脇に残された場所が現れます。
こちらはかつての三木鉄道の駅のあった付近となります。


三木鉄道三木線43
こちらは三木鉄道の廃線跡と併走するように走る
県道20号加古川三田線の三木市別所町下石野付近の光景です。
ご覧の場所がかつての石野駅の駅前となります。
三木鉄道三木線44
県道からの路地がかつての駅への連絡道路で
奥の線路沿いに駅舎がありました。
三木鉄道三木線45
こちらは三木市が2018年(平成30年)に作った旧石野駅休憩所です。
旧石野駅の駅舎を模して同じ場所に建てられたもの
現在は遊歩道の休憩所となっています。
三木鉄道三木線46
休憩所の中は土間にベンチが置かれているのみで
営業時の駅舎の様に券売窓口の跡などはありません。
三木鉄道三木線47
休憩所の壁には、石野駅の営業当時の航空写真が掲示されていました。
三木鉄道三木線49
ホーム側から見た休憩所の様子です。
営業当時と同じ位置に同じ長さであることから、
どうやらホームは現役時代のものを転用した様子です。
駅舎の外観は細かい点は違いますが営業当時に似せてはありました。
三木鉄道三木線51
ホーム前には駅の開業当時に建てられたという記念碑が。
三木鉄道三木線52
そして営業当時のホームの向かい側には、
列車が走っていた当時から廃ホームだった場所に
同じ形でレプリカのホームが設けられていました。
三木鉄道三木線50
三木駅方の東側から見た休憩所の様子です。
ホームからのスロープは営業当時には無かったものですが、
駅の外観はそれなりに似せて復元されていると思います。



三木鉄道三木線53
廃線跡の遊歩道は引き続き北東に向かってほぼまっすぐに続きます。
このあたりになると県道20号線は廃線跡からおよそ60~70mほどの距離で併走をしており、
県道から廃線の跡がよく見えます。
三木鉄道三木線54
田んぼの中を進む廃線跡。
三木鉄道三木線55
石野駅からはちょうど1kmほどの場所を流れる花尻川に架かる遊歩道の歩道橋です。
この場所には三木鉄道が走っていた時には花尻川橋梁というガーター橋が架かっていましたが
廃線後に遊歩道に整備された際に架け替えられています。
三木鉄道三木線56
引き続き田んぼの中を進む廃線跡。
遊歩道の舗装が復活し、緑色のテント倉庫が見えてくると次の駅跡となります。


三木鉄道三木線57
こちらが西這田駅の駅跡となります。
緑のテントの脇の赤線で示した場所にホームがありました。
駅は国鉄時代には設置されておらず、三木鉄道に第三セクター転換した後の
1986年(昭和61年)に新設された駅の一つとなります。
三木鉄道三木線58
こちらが駅付近の光景です。
二車線の広めの市道の踏切脇に駅は設置されていました。
三木鉄道三木線59
駅跡と市道の境にあるこちらの円形の手すりは
営業当時の駅ホームの入口にあったものです。
ホームは撤去されているものの、駅の遺構は残っていました。
三木鉄道三木線60
またスロープ状のコンクリートの脇にある手すりですが
こちらも駅の営業当時の写真にある手すりです。
この手すりが残っている事で、コンクリートのスロープとその奥の擁壁が
駅のホームの一部を残した転用
であることが分かります。


三木鉄道三木線61
引き続き県道20号線と併走しながら田んぼの中を進む廃線跡。
三木鉄道三木線62
登り12.5パーミルの勾配標が廃線跡の脇に残されています。
三木鉄道三木線63
こちらは営業時には這田川橋梁という橋が架かっていました。
現在は遊歩道用に歩道橋となっています。
三木鉄道三木線64
そして橋梁のすぐ東に次の駅の駅跡があります。
西這田駅跡からはちょうど1kmほどの距離の場所です。



三木鉄道三木線65
こちらが別所駅の駅跡に作られた旧別所駅休憩所です。
駅は1916年(大正5年)の路線開業時に設けられており、
2008年(平成20年)に鉄道が廃止された後も廃駅舎が残っていました。
そして三木市が2018年(平成30年)に廃線跡に遊歩道を整備した際に
石野駅と共に現役時代の駅舎を模した休憩場として建て替えられています。
三木鉄道三木線67
休憩所と旧歩道の間にあるホームは現役時代に使われていたものです。
整備が行われた際に残されており、ホーム前後にスロープが新設されています。
ホーム前の線路も現役時代のものが残されました。
三木鉄道三木線69
線路にある構内踏切は営業当時のものでは無く、
遊歩道として整備された際に休憩所と遊歩道の連絡用に設けられました。
三木鉄道三木線66
県道20号線沿いに生木神社という小さなお社があり、その真裏に駅跡があります。
営業当時は神社脇の民家との間の狭い路地から駅の敷地へと入る状態で
どこに駅があるのか分かりづらいと言われていたそうですが、
駅敷地も舗装されて駐車スペースとなり、
県道から車の出入りができる様に道も連絡され整備されています。
三木鉄道三木線70
休憩所の中の様子です。
土間にベンチのみが置かれているのは石野駅の休憩所と同じです。
三木鉄道三木線71
こちらの休憩所にも、壁に営業当時の航空写真が掲示されていました。
三木鉄道三木線72
そして駅前駐車場の駅舎の西の一角にある「旧播州鉄道 別所駅跡」の記念碑。
旧駅舎が解体される前から建っていました。
三木鉄道三木線68
三木駅方面へ東に続く廃線跡。



三木鉄道三木線73
これまで田んぼの中を進んできた廃線跡ですが、
別所駅跡を過ぎたあたりから沿線に民家が増え始めます。
国道175号線の高架橋をくぐる廃線跡。
三木鉄道三木線74
再び遊歩道の舗装が復活すると次の駅までもうすぐです。


三木鉄道三木線75
写真手前を横切る道路にはかつて踏切があり、
その向こう側が高木駅の跡地となります。
第三セクター転換後の1986年(昭和61年)に新しく作られた駅の一つであり、
単式ホーム1面1線で駅舎の無い上屋とホームのみの駅でした。
その為、隣の別所駅からは700mという駅間距離となります。
踏切脇からホームへはスロープで連絡されていました。


三木鉄道三木線76
高木駅跡から東の廃線跡は住宅地の中を進みますが、
道はアスファルトで舗装されています。
三木鉄道三木線77
そして高木駅跡から200mほどの位置にある橋梁の遺構です。
営業当時は高木川橋梁というガーター橋が架かっていました。
細いU字溝の川の脇にはもう一つ橋脚がありましたが橋と共に撤去されていました。
廃線跡の遊歩道では、他の橋は歩道橋に架け替えられていますが
この橋だけは撤去のみで遊歩道が途切れています。
三木鉄道三木線78
川を迂回して反対側へと回りこみ、引き続き廃線跡を東へ。
三木鉄道三木線79
高木川橋梁から250mほどで新たな橋が現れますが、
こちらは営業当時に三木橋梁が架かっていた場所です。
現在は歩道橋が架け替えられて設置されています。
三木鉄道三木線82
三木橋梁を渡ると廃線跡の両側はフェンスで囲われ、
レールの真ん中をコンクリートで舗装した通路が現れます。
橋の東側はかつての終点駅の駅構内にあたり、
敷地が橋から扇状に広がっていきます。
三木鉄道三木線80
フェンスには三木鉄道の廃止時の各駅の駅名標を模したミニチュアが
全駅分掛けられています。
三木鉄道三木線81
三木橋梁の東側は2010年(平成22年)6月に三木鉄道記念公園として整備され、
公園内には標識や信号機などが残されていますが
ミニチュア駅名標もその一環として展示されています。
三木鉄道三木線86
公園内に植樹されたエドヒガン桜に関する説明版。
三木鉄道三木線83
東に進むにつれて敷地の幅が広がって施設が揃い
公園の体裁が整っていきます。
ゲートボールのできるグラウンドはかつてのホームの跡地だそうです。
三木鉄道三木線85
信号機についての説明版です。
三木鉄道三木線84
こちらは公園に設置運営されている「三木鉄道サイクルトロッコ」です。
廃線のレールの上を走行できる遊具で、ボランティアスタッフで管理運営されています。
公園内の三木橋梁手前まで走行が可能となっています。


三木鉄道三木線87
こちらが三木駅の駅舎となります。
営業当時の駅舎が残されており、現在は鉄道公園の「三木鉄道ふれあい館」として
2010年(平成22年)より物産の販売や飲食休憩施設、展示などが行われています。
尚、鉄道公園として駅構内跡が整備された際に
旧駅舎の建物は15mほど南へと曳屋されています。

駅としては1917年(大正6年)の播州鉄道の終着駅としての開業で、
木造瓦葺平屋建ての駅舎は開業以来のものだそうです。
三木鉄道三木線88
駅舎の前は現在は公園内となりますがロータリーが整備されています。
三木鉄道三木線89
ロータリーには三木鉄道記念公園前バス停が。
三木鉄道三木線90
旧駅舎の西側に隣接してあるこちらの上屋は
鉄道公園の休憩場となっていますが、
元々は三木駅の駐輪場兼鉄道荷物取り扱い場でした。
上屋は営業当時のものがそのまま転用されているそうです。
三木鉄道三木線91
そして旧駐輪場のすぐ西隣にはこちらの車止めがあり、
その前に先ほどのサイクルトロッコの車庫があります。



三木鉄道三木線92
こちらは三木鉄道の沿線区間のau 4G LTEでの電波エリアマップです。
ご覧の通り神戸近郊の路線だった為、全区域が電波圏内となっています。
三木鉄道にトンネルがはありませんでしたので全区間でアクセスに支障はありません


また三木鉄道の近隣にはJR加古川線や神戸鉄道粟生線が走っていますので
これらの駅からレーダーを飛ばせば全線を取ることが可能
となっています。

しかし神戸近郊という比較的アクセスしやすい場所にある廃線で、
全長も6.6kmと短いことから徒歩でも1時間強あれば全線が巡れる路線となります。
せっかく位置ゲームをやっているのですから
比較的現地に行きやすいこちらの路線で廃線巡りデビューなどしてはいかがでしょうか。

では。


【写真撮影:2017年10月】

嘉手納線a29
沖縄県営鉄道嘉手納線の続きです。


その1(那覇駅━城間駅)はこちら


嘉手納線61
城間(ぐすくま)駅の駅跡である、
城間大通りと国道58号線の交差する交差点のすぐ南側の
ガソリンスタンド前です。
嘉手納線62
市道の城間大通りから国道58号線に合流し、
国道を北上していくルートがかつての嘉手納線の廃線跡となります。
すっかり国道として整備をされてしまっていますので
かつての鉄道の面影は全く残っていません。
嘉手納線63
城間大通りから国道の反対側を見ると
ご覧の様に米軍の軍用地の入口となるゲートが見えます。
この付近の国道58号線の西側一帯は「牧港補給地区(キャンプ・キンザー)」という
アメリカ海兵隊の兵站施設となっています。
嘉手納線64
この付近の地図が通り沿いにありましたので
嘉手納線の廃線跡と廃駅の位置を書き込んでみました。

城間交差点から国道58号線をそのまま進む嘉手納線の廃線跡。
東へと大きく国道がカーブを描いた先、
城間交差点からはおよそ1.5kmほどの場所で
嘉手納線は国道から反れて南側の市道へと入っていきます。
嘉手納線65
国道58号線から反れた廃線跡は住宅地に飲み込まれてしまっており
300mほどはその痕跡は消し去られています。
ですが地図上で廃線跡を辿ると写真の住宅地の道路が現れます。
この道こそがかつての嘉手納線の廃線跡を転用した道路なのです。
嘉手納線66
廃線跡の道と県道153号線の交差点付近の光景です。
赤線の様に嘉手納線の線路が走っていたと思われます。
嘉手納線67
そして交差点から北に30mほどの付近に
かつての嘉手納線の駅がありました。


嘉手納線68
こちらが牧港駅(駅メモ未収録)の駅跡です。
駅は1937年(昭和12年)に住民の請願駅として設置されました。
嘉手納線の開通は1922年(大正11年)ですが、鉄道開通前は
牧港の集落の住人達は駅の設置に反対したそうです。

しかし開通後に鉄道駅の有用性に気がついた住人達は
駅用地を提供するなどし、開通から14年後に新たにこの場所に駅ができたのです。
開業時は単式1面1線の無人駅だったそうで、
沖縄線までのわずか8年間だけ営業を行った駅でした。
嘉手納線69
駅跡の向かいにはご覧の「マチナトガー」と呼ばれる湧き水があります。
「マチナト」が「牧港」で、「ガー」がどうやら湧き水の水場の意味の様です。


嘉手納線70
牧港駅跡を過ぎて、廃線跡の道を進み
県道153号線(牧港バイパス)の交差点を越えます。
嘉手納線71
交差点から100mほどのところにガジュマルの樹が立っていますが
その付近が次の駅の駅跡となります。

嘉手納線72
こちらが大謝名駅(駅メモ未収録)の駅跡付近です。
ガジュマルの樹の向かいの商店付近がかつての駅だった場所だそうです。
1922年(大正11年)の路線開通時に設置された駅で営業時は無人駅でした。
嘉手納線73
駅跡の向かいにあるガジュマルの樹です。
根元の石灰石を根が絡むように抱え込んでいます。
嘉手納線敷設の際に石灰石が削られており切り通しのようになっています。


嘉手納線74
大謝名駅跡を過ぎて廃線後の道を北へ。
嘉手納線75
駅跡から70mほどで住宅地に飲み込まれて
廃線跡の道は途切れてしまっています。
この先は戦後まもなく住宅が立ち並んだ場所で
鉄道の遺構は消え去ってしまっています。
嘉手納線76
廃線跡に沿って脇の路地を進むも
すぐに住宅の敷地に阻まれて完全に進めなくなります。
この先の廃線跡の延長線上120mほどの場所に
国道58号線の大謝名交差点があり鉄道も交差点の場所を通っていました。

元々は県道だった国道58号線の大謝名交差点は
旧県道の大謝名三叉路にあたります。
戦前は鉄道が下を通り、県道はその上を橋でオーバーパスしていたそうです。
嘉手納線77
この付近については宜野湾市役所が歴史文化遺産マップを作成しています。
宇地泊地区のリーフレットには鉄道跡のルートが書き込まれおり、
嘉手納線の軽便鉄道跡地をたどるのに非常に役に立つのでご参照下さい。
参考
宜野湾市公式「歴史文化遺産マップ」
http://www.city.ginowan.okinawa.jp/organization/bunkaka/isanbunkarekishimap.html



国道58号線の大謝名交差点の西側は
宜野湾市の区画整理事業が行われている土地で、
再開発によって廃線跡は途切れ遺構は残っていません。
嘉手納線78
こちらは大謝名交差点から北に800mほどの地点で
宜野湾警察署の西側の裏手付近となります。
二車線ある区間は再開発の手が入っており
廃線跡であるかは概ねそうであるとしか言えません。
道幅が狭く1車線になる付近からは嘉手納線の跡地と見て間違い無い様です。
嘉手納線79
嘉手納線の跡地が転用された道路です。
この先が次の駅の駅跡となります。

嘉手納線80
こちらが真志喜駅(駅メモ未収録)の駅跡付近です。
嘉手納線の全線開通の翌年である1923年(大正12年)に与儀駅と同時に新設されました。
嘉手納線81
駅跡の向かいを見ると、木の根元の土が切り通しのようになっており
かつてここが線路であった痕跡をうかがい知る事ができます。

嘉手納線82
真志喜駅跡を過ぎて北に進むと
廃線跡は崖上を通過しており眼下に芋畑を見下ろしています。
ニトリの裏手を通過する廃線跡。
駅跡から1kmほどは廃線跡が道路として続いています。
嘉手納線83
大山地区の付近では廃線跡と道路がずれており、
線路のあった場所には住宅が立ち並んでいます。
その横を並走するように走る生活道路をいかにも廃線跡と思いがちですが
実際には嘉手納線はややずれて走っていた様です。
嘉手納線84
そしてゲートボール場として使われていた空き地を通り過ぎると
その先が次の駅跡付近となります。

嘉手納線85
こちらが大山駅(駅メモ未収録)の駅跡付近となります。
1922年(大正11年)の路線開業時にに開設された駅で、
単式ホーム2面2線で列車交換の可能な有人駅だったそうです。
貨物用の側線と蒸気機関車用の給水給炭設備まである大きな駅でしたが
周辺の集落からは離れた場所にあり不便で、
駅開設の翌年には南に真志喜駅が新設されています。
嘉手納線87
駅跡敷地の南端付近と思われる旧ゲートボール場の空き地。
嘉手納線88
駅跡に建つマンションの敷地の大きさを見ると
交換可能駅であったという当時の駅跡というのも納得がいきます。
嘉手納線89
大山駅の駅跡を過ぎた北側の光景です。
駅跡付近の生活道路が不自然に湾曲しているのが分かりますが、
このあたりが駅の敷地であったと考えると符号する形となっています。

廃線跡が再び道路と合流し、およそ800mほどはそのまま生活道路として進みます。
国道58号線の伊佐浜交差点付近で廃線跡は国道と合流。
隣の伊佐(北)交差点付近までおよそ300mほどは国道付近が廃線跡となります。

嘉手納線92
そしてこちらは国道58号線の北前付近。
廃線跡が国道から分岐した伊佐(北)交差点からは北へ700mほどの地点です。
国道58号線の東側一帯は米軍普天間基地となっており、
歩道橋のあるこの場所には普天間基地の第5ゲート(北前ゲート)があります。

嘉手納線の廃線跡は国道の東側を100mほど離れて並走しており、
この第5ゲート前の信号から150mほどの場所には嘉手納線の遺構が残っています。
嘉手納線90
ゲートの真東付近の嘉手納線の廃線跡です。
この付近は廃線跡を転用した道路と住宅が細切れに混在しています。
嘉手納線91
切り返して見た廃線跡付近。
赤線で示したのが線路があったと思われる場所です。
嘉手納線93
そして廃線跡の道は普天間川へとぶつかりますが、
こちらに嘉手納線の遺構があります。
嘉手納線94
普天間側に架かるその名も「軽便橋」です。
名前の通りこの橋はかつて嘉手納線の軽便鉄道の橋梁があった場所にある橋です。
嘉手納線95
橋の橋脚を見ると分かりますが、
この橋脚はかつて軽便鉄道の渡っていた鉄道橋を支えていたものです。
元々は「佐阿天原橋梁」の橋脚でしたが、
上に載る橋が1988年(昭和63年)に「軽便橋」として架け換えられました。

嘉手納線96
軽便橋の北側の先は当然ながら廃線跡となりますが、
ご覧の通り住宅が行く手を阻んでおり、再開発に飲み込まれてしまった様です。
それもそのはずで、普天間川(佐阿天川)の北側は沖縄線の後に米軍が接収。
「ハンビー飛行場」が建設され米軍基地となっていたのです。

1981年(昭和56年)にハンビー飛行場跡地が変換された後は
地主組合による土地区画整理事業で再開発が行われ、
ショッピングセンターなどが立ち並ぶ街となっています。
嘉手納線97
そしてこちらが旧ハンビー飛行場の敷地内だった、
かつての嘉手納線の駅跡付近の光景となります。
嘉手納線98
北谷駅(駅メモ未収録)とされる場所です。
1922年(大正11年)の路線開業時に作られた駅ですが、
ご覧の通りかつての駅跡は現在は6階建てのマンション敷地となっています。

嘉手納線の廃線跡の資料を辿ると「沖縄県介護保険広域連合」の建物付近が
かつての北谷駅の駅跡であるとされています。
嘉手納線99
しかし沖縄県介護保険広域連合のサイトを見ると
2013年(平成25年)に庁舎が移転していることが記されています。
庁舎のあった場所に建っているマンションの不動産情報を見ると
2016年(平成28年)3月築とありますので、
かつての庁舎は解体されてマンションとなった事が分かります。
嘉手納線a01
資料からマンションの手前付近が駅跡らしいですが、
米軍飛行場建設でブルドーザーで整地され、
戦後の再開発で区画整理となっていることから
遺構は残っておらず痕跡を見つけるのは不可能となっています。
駅がここだったという話は、恐らく飛行場敷地の地権者の登記などから
この場所に駅があった、とされているのだと思われます。
嘉手納線a02
駅跡のすぐ近くにある安良波ビーチ。
こちらも飛行場の返還後に整備された海岸です。


嘉手納線a03
北谷駅跡から北へ900mほどの北谷町美浜の市道付近の様子です。
すぐ東側には国道58号線が走っており、その国道の東側は
米軍のキャンプ桑江があって海軍病院などが置かれています。
嘉手納線の次の駅跡はこの先の中学校の前付近にありました。
嘉手納線a04
こちらが北谷町立桑江中学校の校門前付近です。
この付近にかつての桑江駅(駅メモ未収録)があったそうです。

他の駅同様に1922年(大正11年)の路線開業時に作られた駅ですが、
跡地の校門前の道路が2車線の広い道路であることからも分かる通り
復興と再開発の手が入っており、駅前後のルートを正確に手繰る痕跡はありません。


嘉手納線a05
中学校前の桑江駅跡を後にすると
廃線跡は国道58号線の西側を並走する様に北上していました。
国道に沿って築堤が築かれていて並走しながら線路は北に向かっていたそうですが
今ではその築堤の痕跡を見ることはできません。

嘉手納線a06
そしてこちらは桑江駅跡から北に2.4kmほどに位置する
国道58号線の北谷町砂辺付近の様子です。
ファミリーマート嘉手納第一ゲート前店が国道沿いにある付近と言うと
位置が分かりやすいでしょうか。
嘉手納線の廃線跡はこの南側付近で国道を斜めに横断するように走っていたそうです。
嘉手納線a08
コンビニの店名からも分かる通り、
ここには米軍嘉手納基地の第一ゲートがあります。
国道58号線の砂辺(南)交差点がゲートへの入口前の信号で、
ゲートへの道にはご覧の通り米軍基地との境界線がペイントされています。
このゲートの南側付近にかつての嘉手納線の駅があったそうです。
嘉手納線a09
平安山駅(駅メモ未収録)の駅跡付近の光景です。
駅名は平安山と書いて「へんざん」と読みます。
この駅も1922年(大正11年)の路線開業時に設けられています。

嘉手納線a10
嘉手納基地の第一ゲート前を過ぎて国道は北上していますが、
ここから先は嘉手納線の廃線跡は米軍基地の敷地内へと東に切れ込んで行きます。
当然ながら民間人がその跡を辿ることはできません。

嘉手納線a11
こちらは第一ゲートから国道58号線を2.1kmほど北へと進んだ地点です。
近くにはローソンネーブルカデナ店があり、
「奥まで101km」の国道の距離標があります。
(※奥は国頭村奥の事で国道58号線の沖縄県内の北端)
この場所から東へおよそ500mほど嘉手納基地の中に入った場所が
地図上では野国駅(駅メモ未収録)の駅跡のあった場所となります。

資料を見る限りでは駅跡付近は嘉手納基地の滑走路となっていますので
恐らく駅の痕跡は全く残ってはいないでしょう。


嘉手納線a12
こちらは野国駅跡から1.3knほど北に位置する
嘉手納町役場の前の光景です。
嘉手納線a13
そしてこちらが嘉手納町役場の建物。
嘉手納線a14
役場の前の道を北へと進むとすぐにモニュメントがあります。
嘉手納線a15
こちらが沖縄軽便鉄道嘉手納線の嘉手納駅の跡地を示すモニュメントです。
嘉手納駅は駅メモに登録されている駅ですので
この駅を取らなければ沖縄県はコンプリートできません

駅は1923年(大正12年)の嘉手納線開業時に北端の終着駅として設置されたもので、
2面2線のホームを持つ有人駅であり、
側線も有して貨物の取り扱いも多い有人駅だったそうです。
嘉手納線a16
台座に刻まれた嘉手納線のと嘉手納駅の説明文。
嘉手納線a17
同じく台座にある嘉手納駅の営業時の写真です。
嘉手納線a18
モニュメントの先を北へと進むと「ロータリー広場」が見えてきます。
嘉手納線a19
広場の前にある看板。
嘉手納線a23
東側には再開発で作られたロータリープラザという嘉手納町の施設が建っており、
防衛省沖縄防衛局や入国管理局が入っています。
嘉手納線a20
こちらが広場の様子であり、嘉手納駅の駅跡とされている場所となります。
元々はこの広場は「嘉手納ロータリー」という
直径約120mの日本一の大きさのロータリーの中央部でした。

ロータリーは戦後の米軍統治時代に軍用道路1号線の一部として
米軍によって作られたもので、
作られた場所が嘉手納駅があった場所だったそうです。
嘉手納線a22
広場から役場までは直線の道が伸びていますが、
嘉手納駅跡の石碑付近から南はかつての国道58号線の旧道です。
2007年(平成19年)に現在のルートに国道58号線が付け替えられた際に
旧道の東側半分が削られ道幅が狭くなりました。

石碑より広場側はかつての嘉手納ロータリーの内側であり、
駅跡も写真の付近ではないかという話もあります。
ですが一旦米軍によって整地されてしまっている為
おおよその位置を推測するしか無いのが現状となります。
嘉手納線a24
こちらは嘉手納町役場の前にあった観光案内版の地図です。
嘉手納線a25
この地図に嘉手納線の通っていたとされるルートを書き込んでみました。



嘉手納線a26
こちらが嘉手納線の城間駅━嘉手納駅間の廃線跡の、
au 4G LTEでの電波エリアマップとなります。
ご覧の通り全ての区間で電波状態は良好ですのでアクセスに困る事は無いでしょう。

そして駅メモで嘉手納線の廃駅として収録されているのは
与儀駅、城間駅、嘉手納駅の3つのみですので
城間駅と嘉手納駅の中間地点がお互いの駅の境界となります。
この境界線付近にちょうどあるのが北谷駅跡となります。

ではレーダーを使用するとどうなるのか。
嘉手納線a27
こちらは嘉手納線の真志喜駅跡付近でのレーダーの射程です。
駅メモで真志喜駅は登録されていない為、チェックイン先は城間駅となりますが。

そしてこの真志喜駅付近でチェックインをすると
ちょうど12駅目で嘉手納駅がレーダー射程に入っているのが分かります。
通常時でのMAXの12駅射程では真志喜駅跡付近からが射程圏の様です。
この真志喜駅は嘉手納線で北谷駅からは南に2駅隣で
距離にしておよそ3kmといったところに位置しています。

ちなみになつめスキルを使って+2駅の14駅射程でも
やはり真志喜駅跡付近がレーダー射程の境界
となります。
スキルを使っても射程圏がほぼ変わらないのは
射程ボーダー付近であるゆいレールの駅間距離が近すぎる為
です。


そして2018年(平成30年)11月30日に駅メモでは
レーダーブースターというアイテムが実装
されました。
「レーダーの検知数を+4駅」というアイテムの登場により、
レーダーMAX(12駅)+なつめスキル(+2駅)+ブースター使用(+4駅)で
射程距離が最大18駅まで伸びる
というアイテムとなります。

これによって元々全県で18駅しか無い沖縄県は
県内のどこでアクセスしても全県の駅がレーダー射程圏内という事態となりました。

これまでは「どんなアイテムを使っても嘉手納駅だけは取れない」という状態で
「駅数は少ないながらも難易度は低くない」とされていた沖縄県コンプが
ブースター登場で途端にイージーになったということ
です。
那覇空港駅などは外国からのアクセスで取れる駅として有名ですから
「世界中から沖縄県がコンプできる」という時代となった訳です。


まあ、これまでも飛行時に携帯電波の使えないLCCではなく、
JALなど機内Wi-Fiの使える旅客機で沖縄北方の海上でアクセスすれば
通常チェックインで嘉手納駅が取れていた訳ですから
「何をいまさら」という意見もあるかと思います。
嘉手納線a28
しかし、個人的にはこの嘉手納駅跡の碑を肉眼で見た人こそが
真の沖縄マスター
なんじゃないか、と思っていたりします。


では。

嘉手納線60
続いては沖縄県営鉄道嘉手納線についてです。

駅メモでは単に「嘉手納線」として登録されているこの路線は、
1922年(大正11年)に沖縄県営鉄道の2番目の路線として開業した鉄道です。
古波蔵駅━ 嘉手納駅間の22.4kmが正式な嘉手納線の区間でしたが、
先に営業をしていた与那原線に乗り入れて全列車が那覇駅まで運行をしていました。

廃線の駅として駅メモで登録されているのは
与儀駅、城間駅、嘉手納駅の3駅のみ
ですが、
その廃線跡を巡りこちらでは那覇駅━嘉手納駅間を見ていきたいと思います。



嘉手納線01
こちらは沖縄都市モノレールの旭橋駅のすぐ南の列車内から見た光景です。
建設中の青いシートに覆われているのは建設中の那覇バスターミナルです。
(註:撮影は2018年4月で、那覇バスターミナルは同年10月に開業済み)

中央を走る国道330号線を挟んでバスセンターの向かいにあるのは
リーガロイヤルグラン沖縄というホテルの建物です。 嘉手納線02
旭橋駅からホテルへのデッキの、
ちょうど写真の真下あたりにかつて那覇駅(駅メモ未収録)
ここにあった事を示す碑があります。
嘉手納線03
歩道へと降りて、仮設のチケット売り場の向こう側へとまわると
旭橋交差点の北東角の歩道にご覧のモニュメントがありました。
嘉手納線12
ちょうどモニュメントの横に案内地図があり
この場所を示してくれていました。
嘉手納線04
モニュメントに記された歴史や写真です。
この碑の真裏あたりがかつて那覇駅の転車台があった付近だそうです。
嘉手納線05
こちらは碑にあった沖縄県営鉄道の路線図です。
嘉手納線06
那覇駅の構内配線図もあったので、赤でモニュメントの位置を示しました。
嘉手納線07
こちらは旭橋駅の東側、モニュメントからは北西の
バスセンターの北西側に面する道路の光景です。
嘉手納線08
ここに「仲島の大石(なかじまのうふいし)」という県指定の天然記念物があります。
かつては海岸の海の上にあったという大石は、
近隣住民に縁起の良い岩として大切にされてきたものです。
那覇駅が営業していた時には駅構内の機関庫の北に位置していたもので、
場所の変わらぬその存在からかつての那覇駅の位置関係が分かるという目印なのです。
嘉手納線09
かつての廃駅跡である那覇バスセンターの敷地から、
嘉手納線はおおよそではありますが赤線の様に東南へと進んでいました。

嘉手納線10
バスセンターの東の先にある国道330号線の旭町交差点。
国道はここから壺川通りとなって南へとカーブを描きますが、
県営鉄道の線路もおおよそ赤線のように
国道と並走するように南へと曲がっていったと考えられます。
嘉手納線11
マンションの裏手の、国道の東側を並走している市道を南下。
この道が廃線跡そのものかは定かではありませんが、
残された遺構などからおおよそこの道か
または沿うように県営鉄道の線路は南下したと思われます。
嘉手納線13
市道を南下すると阿手川公園の前を通過してすぐに
ご覧のように道が左に曲がって正面が突き当たっています。
嘉手納線15
県営鉄道の線路はこの正面のビル付近を
そのまま南へと直線で走っていたと思われます。
ビルが建っていることからも分かる通り
ここから先は住宅が立ち並び完全に鉄道の面影は残っていません。

嘉手納線14
そして市道が突き当たった場所からおよそ南に300mの、
廃線跡と思われる市道を延長した先にあるのが
こちらの壺川東公園となります。
嘉手納線16
公園にはご覧の通りディーゼル機関車と線路があります。
機関車は大東島で戦後サトウキビ運搬に使われていたものですが、
下の線路は沖縄県営鉄道で使われていたものなのです。
嘉手納線17
ブロックで作られた碑に記されている通り、
かつての沖縄県営鉄道がこの公園を通っており、
公園造成工事の際にレールが出土したことから
鉄道が走っていた場所にレールを復元
したそうです。
嘉手納線18
公園から廃線跡はさらに南へ。


嘉手納線19
こちらは壺川東公園から南の廃線延長上におよそ400mほどの場所で
国道330号線が西へと進路を変え壺川通りから与儀大通りと名を変えて、
新たに国道507号線が終点となっている古波蔵交差点のすぐ北の地点です。
中央に立つビルは古波津商事ビルです。
嘉手納線20
この古波津商事ビルの北西の、駐車場の片隅にご覧の通り
橋の橋台が残っているのです。
嘉手納線21
橋台のすぐ北側の住宅地の路地です。
恐らく橋台の位置からしてご覧の様に線路が走っていたことでしょう。
嘉手納線22
古波蔵交差点の歩道橋から見た古波津商事ビル付近の光景です。
かつてこのビルの付近に沖縄県営鉄道の古波蔵駅(駅メモ未収録)がありました。
嘉手納線23
交差点の国道330号線の左折路から
古波津商事ビルの入口前へと通じる道があります。
嘉手納線24
こちらが古波津商事ビルの前の駐車場です。
嘉手納線25
ビルの右側、方角では北となる一体が空き地となって駐車場になっていますが
かつてここにサトウキビから精製するアルコール工場があったそうで、
古波蔵駅は古波津商事ビルと工場跡の空き地の間にあったそうです。
ちょうど写真中央の電柱の向こう側あたりでしょうか。
嘉手納線26
県営鉄道の線路が通っていたと思われる場所を赤線で示しました。
多少のズレがあると思いますが概ねはご覧の感じで走っていた様です。
嘉手納線27
ちょうど駐車場前の国道沿いにご覧の看板がありましたので
廃線跡と駅の場所を書き込んでみました。


嘉手納線28
こちらは古波蔵交差点から国道330号線を北に1kmほど進んだ
那覇警察署の付近の光景です。
警察署のすぐ北には与儀交差点があります。
嘉手納線29
こちらが与儀交差点。国道330号線と県道222号線(市民会館通り)が交差しており、
国道はこの交差点で与儀大通りからひめゆり通りへと名前を変えます。
この付近にかつての沖縄県営鉄道の与儀駅があったそうです。
尚、与儀駅は嘉手納線の駅として駅メモで収録されています

与儀駅は1923年(大正12年)に設置された駅で、
前年の1922年(大正11年)に嘉手納線が開業した一年後に作られた駅となります。
当時は単式1面1線の無人駅だったそうです。
嘉手納線30
こちらがおおよその沖縄県営鉄道の廃線跡と
与儀駅があったとされる付近の光景です。
駅は与儀交差点から与儀公園の入口付近にあったそうです。
嘉手納線31
与儀交差点に面した与儀公園の入口です。
嘉手納線32
こちらはひめゆり通り側の公園入口ですが、
シーサーに挟まれた入口の目の前に非常に興味深いものがあります。
嘉手納線33
ご覧のD51形蒸気機関車です。
D51-222という車両で小倉工場で生産され九州を走り、
最後は南延岡機関区に所属をしていた車両で、
D51の中では「標準形」と呼ばれる一番ポピュラーな形をしています。


嘉手納線はかつては築堤の上を走っていたそうですが、
戦後の復興で築堤は崩されて現在の国道330号線と姿を変えました。
ですのでこの付近では国道330号線が廃線跡ということになります。
嘉手納線34
与儀駅跡からの国道は「ひめゆり通り」と名を変えますが、
その由来となっているのが、駅跡から北に800mほどにあるこちらのひめゆり橋となります。

かつてはここに嘉手納線の橋が架かっており鉄道が走っていました。
その脇には人が一人渡っても揺れるという人道橋があり
ひめゆりの由来である県立第一高等女学校の生徒が通学に使っていました。

ある大雨の日にこの橋を渡っていた女学生が安里川に転落するという事故があり、
安全の為に女学生の名をとった木橋に架け替えられました。
そして昭和初期に更に丈夫な橋へと架け替えられて「ひめゆり橋」となり
現在へとその名が受け継がれています。
参考
栄町市場商店街「栄町市場について」
http://sakaemachi-ichiba.net/about.html

嘉手納線35
そして廃線跡であるひめゆり通りを、ひめゆり橋から100mほど進むと
沖縄都市モノレールの安里駅が見えてきます。
嘉手納線37
こちらの高架駅がモノレールの安里駅です。
かつての沖縄県営鉄道の安里駅(駅メモ未収録)
奇しくもモノレールの安里駅とほぼ同じ場所
にあります。
嘉手納線38
こちらはモノレールの安里駅ホームから見た駅の東側の光景です。
正面に見える「りうぼう」というスーパーの敷地付近が
「ひめゆり学徒隊」で有名な沖縄県立第一高等女学校の跡地となります。
嘉手納線36
モノレール駅の東側の光景に県営鉄道の線路跡と
駅があったと思われる付近を書き込みました。
この付近は沖縄戦と戦後の復興で鉄道の痕跡が残っておらず
駅の正確な位置は不明なのです概ねの目安と考えて下さい。


嘉手納線39
安里駅から北も嘉手納線は、
現在の国道330号線と同じルートを走っていました。
写真はモノレールのおもろまち駅で、
安里駅からはおよそ800mほど北に位置しています。
嘉手納線40
こちらはおもろまち駅の西側の光景ですが、
ここには沖縄戦最大の激戦であったシュガーローフ(安里52高地)がありました。
米軍が「シュガーローフ」「ハーフムーン」と呼んだ丘陵の間を
嘉手納線(現在の国道330号線上にあった)は切り通しで敷設されていました。
嘉手納線41
おもろまち駅から600mほど北上した国道330号線の真嘉比交差点付近です。
まだ嘉手納線と国道のルートは重なっています。
嘉手納線42
さらに400mほど北上した、こちらはモノレールの古島駅の南側付近の光景です。
この付近の嘉手納線の廃線跡は、戦後の復興開発の波に飲み込まれてしまっており
現在ではその正確な位置を把握することは困難です。
ですが過去の文献や、廃線の線形や地形などから推測すると
おおよそこの付近で嘉手納線の線路は写真左手の西側へと
国道から反れて敷設されていたはずです。
嘉手納線43
そしてこちらは古島駅からおよそ北西に300mほどの場所にある
県道82号線(環状2号)と県道251号線(パイプライン通り)の交る古島交差点です。
住宅や道路となり完全に跡形もありませんが
赤線で示したように嘉手納線はこの交差点まで敷設されていました。
嘉手納線44
古島交差点から見た北側への光景です。
ここから北の県道251号線が沖縄では「パイプライン」と呼ばれており、
沖縄本土復帰までは道路下に米軍の嘉手納基地などへの送油管が通っていました。
嘉手納線45
そのパイプライン通りを250mほど進むと次の駅跡の地点となります。
嘉手納線47
県道251号線である事を示す標識。
「内間」の地名が書かれています。

嘉手納線46
こちらが嘉手納線の内間駅(駅メモ未収録)があったとされる付近の光景です。
内間駅は1922年(大正11年)の嘉手納線開業時の駅で、
当初は無人駅だったものの後に有人駅となっています。
嘉手納線48
駅跡の前に建つ日本年金機構の浦添社会保険事務所。


嘉手納線49
県道の脇に設置されている「パイプライン通り」の標識です。
嘉手納線50
内間駅後からしばらく、嘉手納線はパイプライン通りを
廃線跡として北上をしていきます。
1.8kmほど進んだこちらは通り沿いにある屋富祖郵便局です。
ご覧の通りコンビニを併設している郵便局です。
嘉手納線51
そして通りを挟んだ郵便局の向かいには
琉球バスの大平特別支援学校前停留場があります。
嘉手納線52
停留場の名の通りバス停の裏は特別支援学校の敷地なのですが、
歩道脇の敷地の脇に嘉手納線の遺構が残っています
嘉手納線53
こちらがこの場所で1991年(平成3年)の街路工事で出土した
嘉手納線の線路のレール
です。
嘉手納線54
一緒に立っている石の三角杭はかつてこの道路に
パイプラインが走っていた当時に、軍用地の境界を示す為のものです。
当初はここに2本復元されていたはずですが、
現在では1本のみが残っていました。
嘉手納線55
そして支援学校の目の前の交差点がY字に分岐をしているのですが、
嘉手納線はこの交差点でパイプライン通りから
城間大通りという市道へと曲がっていたそうです。
嘉手納線56
廃線跡の市道を北西へと進みます。

嘉手納線57
城間大通りをちょうど1kmほど進むと国道58号線へとぶつかりますが、
ここにある城間交差点の角にあるガソリンスタンド(エッソ石油エクスプレス城間SS)付近が
嘉手納線の駅である城間駅の駅跡となります。
駅メモでは廃線の嘉手納線の駅は3駅しか登録されていませんが、
那覇側から数えてこの城間駅は2つ目の登録駅
となりますので
チェックインを忘れないように気をつけて下さい。

城間は(ぐすくま)と読み、城間駅は1922年(大正11年)の嘉手納線開業時に設置されました。
無人駅も多かった嘉手納線でこの駅は17.67坪の駅舎を持つ有人駅だったそうです。


嘉手納線58
こちらは嘉手納線の那覇駅から城間駅までの区間での
au 4G LTEでの電波エリアマップです。
ご覧の通りこの付近は全ての場所が電波圏内となっていますので
駅へのチェックインに困る事は無い
でしょう。

嘉手納線を地図に青線で示し、登録駅の与儀駅と城間駅の場所も
併せて地図上に示しましたのでご参照下さい。

嘉手納線59
こちらは沖縄都市モノレール(ゆいレール)で一番北にある
古島駅からのレーダーエリア範囲を示した図です。
射程8で与儀駅、射程11で城間駅に届くのがご覧いただけると思います。


全長22.4kmの嘉手納線、那覇駅━古波蔵駅間の1.2kmを足せば23.6kmの路線です。
那覇駅━城間駅間は8.4kmの営業距離でおおよそ半分といったところでしょう。
城間駅━嘉手納駅間の嘉手納線北部についてはその2に続きたいと思います。

では。

江差線96
【上写真:江差線キハ40 photolibrary

さて、続いてはJR江差線の廃線区間である
木古内駅━江差駅間についてです。


現在残っているJR江差線の区間は
第三セクターの道南いさりび鉄道へと転換
していますので
いさりび鉄道について書いた以下の記事をご参照下さい。
 【攻略】道南いさりび鉄道線 その1。(木古内━上磯)
 【攻略】道南いさりび鉄道線 その2。(上磯━五稜郭)




江差線01
こちらは道南いさりび鉄道の木古内駅の駅舎です。
かつての旧江差線の木古内駅駅舎を改修して使用しています。

この木古内駅から現在のJR海峡線と同じルートを南下し、
道道5号線の踏切を越えた付近で西へと江差線の線路は延びていました。
以後線路はしばらく道道5号線と並走するように走ります。


江差線02
こちらは道道5号線江差木古内線で木古内駅から2km少々進んだ付近です。
横断歩道と信号機があります。
江差線03
信号の目の前には木古内町郷土資料館があります。
この建物は2011年(平成23年)に廃校となった鶴岡小学校の廃校舎を転用したものです。
門には「鶴岡小学校」の表札がそのまま残っています。
江差線04
その郷土資料館の西側に面した道に
ご覧の通り「道南トロッコ鉄道 鶴岡公園駅」の表示があります。
こちらがかつての駅への道となります。
江差線05
道を進むと待合室と踏切が見えてきます。
江差線07
こちらがかつての渡島鶴岡駅の駅舎です。
駅舎と言っても待合室のみの建物ですが、
江差線が営業していた当時の建物が今でもそのまま使用されています。
私が訪問したときには改装中でちょうど駅舎の中に新たなカウンターなどを
大工さんが作っている最中でしたが。
江差線09
駅舎の前にある「天ノ川駅」の駅名標。
かつて江差線の線路脇にあった、駅を模した観光モニュメントにあったものですが
現在はここに置かれていました。
江差線10
反対側の駅舎脇には観光案内板が。
江差線06
駅舎のすぐ脇にあるこちらが駅のホームです。
江差線営業当時のホームがそのまま残っています
駅は1964年(昭和39年)に国鉄江差線の駅として新設されたもので
2014年(平成26年)の木古内駅━江差駅間廃止まで使われていました。

現在では廃線跡の線路を利用して「道南トロッコ鉄道」という
軌道自転車が営業しており「鶴岡公園駅」となっています。
江差線08
踏切跡のホームと反対側、木古内方面の様子です。
江差線11
道道5号線へと戻って郷土資料館の隣を見ると
鶴岡農村公園の駐車場があります。
江差線12
駐車場の西の端にある農村ふれあいセンター。
江差線13
そして駐車場の一角にはこちらの表示板がありました。
内容を読むと「鶴岡」というこの地の地名が山形の鶴岡が由来である事、
1885年(明治18年)に庄内藩士105戸が開拓の為入植したこと、
木古内町と鶴岡市が姉妹都市であることが分かります。
江差線14
同じく駐車場の一角にある記念の石碑です。
江差線15
公園はご覧の様に草地の広場となっていますが、
広場の片隅には「江差線追想」という石碑のある枝垂桜が植樹されています。
江差線16
そして農村公園にはご覧の水路が作られていますが。
江差線17
水路は江差線の線路沿いに作られており、
ご覧の様に水路の横にはホーム跡があります。

江差線18
そして再び道道5号線に戻り
鶴岡農業公園の先を見ると禅燈寺というお寺の参道があり、
中を進むと山門があります。
江差線19
山門の先を見ると本道との間の参道に
踏切が設けられているのが見えます。
この踏切は江差線の営業当時には実際に使われていたものであり
「お寺の山門の前を列車が横切る」というシュールな光景で有名なスポットでした。
江差線21
踏切から見た江差方面。
観光用の軌道自転車が今でも走っていますので廃線はそのまま残されています。
江差線20
旧渡島鶴岡駅跡の最寄りのバス停はこちらの「鶴岡禅燈寺前停留場」で
公園の入口前の道道沿いに置かれています。



江差線22
木古内川に沿って道道5号線を西へ3kmほど進むと
次の駅のあった付近へと到着します。
江差線23
かつての駅前商店であった戸辺商店。
江差線24
その戸辺商店の西隣にある砂利の空き地がかつての駅前広場となります。
現在では周辺の工事の現場事務所があり仮設のプレハブが置かれています。
広場の奥がかつての駅のホームのあった場所となります。
江差線27
反対の東側からみた駅前広場付近。
江差線25
こちらが吉堀駅の駅舎です。
駅は1935年(昭和10年)の国鉄上磯線の延伸で開設され、
2014年(平成26年)の木古内━江差間廃止によって廃駅となりました。

今も残っている黄色い駅舎はヨ3500形車掌車を改造した現役当時のものです。
駅舎に沿ってホームがあったのですが、現在ではご覧のように
廃線跡ごろ草に埋もれてしまっています。
江差線39
こちらは営業当時の駅の様子です。
江差線26
かつての駅前広場にある函館バスの吉堀停留場。
江差線28
こちらが函館バスの路線バスとなります。



吉堀駅から次の神明駅までは13.2kmの距離があります。
分水嶺でもある吉堀峠をかつての鉄道は越えていましたが、
道道5号線からは離れて北のウグイ川に沿って迂回するルートを走っていました。
江差線29
こちらは鉄道跡が再び道道5号線と並走に戻る付近。
峠を越えたので並走する川が天野川に変わり、
神明ノ沢川が天野川に合流する付近となります。
道道5号線からご覧の道を300mほど入ると写真の踏切跡があります。
江差線30
踏切脇のこちらがかつての神明駅のあった跡地となります。
1957年(昭和32年)に国鉄江差線の時代に新設開業した駅でした。
江差線31
撤去される前の神明駅の駅舎とホームです。
見比べると確かにここが駅だったことが分かります。
江差線32
駅舎のあった場所を見ると、地中まであった基礎を除いて埋め戻した跡が
綺麗に建物の形に残っていました。
地元自治体が江差線施設の撤去作業を10年がかりで進めていますので
恐らく神明駅の施設は最近(註:2018年)解体されたのだと思います。
江差線33
まだレールの残る廃線跡から江差方面を見ると
50km1/2の距離標が線路脇に残っていました。
江差線34
振り返って駅の跡地の光景です。
江差線35
道路まで戻ると駅舎の反対側の踏切脇が舗装された広場のようになっており、
函館バスの神明停留場が設置されていました。
江差線36
広場は道路と一体の様に舗装されていましたが、
鉄道用地の境界杭が埋もれていましたので道路では無い様子でした。
江差線40
踏切から木古内方面の廃線跡。
民家への砂利道の脇に線路が残っていました。
江差線38
広場の東隣の町道沿いにあった看板。
この地でかつて農水省の整備事業があったことを示す看板ですが
完了昭和64年とありますので、事業は江差線廃止の25年前ということになります。
江差線37
東側から駅跡を見ると、町道にはまだ踏切の標識が残っていました。



江差線41
神明駅から道道5号線を下って3km弱を進むと
湯ノ岱温泉への案内表示、湯ノ岱郵便局の前を通り
かつての駅前へと差し掛かります。
江差線42
横断歩道のあるこちらの交差点が駅跡への入口で、
道道には駅への案内表示も残っていました。
江差線49
反対側から見た駅前の交差点。
江差線50
駅と反対側の交差点前にはご覧の酒屋がありました。
江差線43
道道と駅を連絡する駅前の道路です。
江差線47
湯ノ岱駅の駅舎は駅前の道の突き当たりの
ご覧の場所に建っていました。
江差線44
こちらが駅の跡地となります。
1935年(昭和10年)の国鉄上磯線の延伸によって作られた駅ですが、
列車交換のできる島式1面2線のホームの他に留置線もあったそうで
跡地はなかなかの広さとなっています。
江差線45
この駅も江差線の施設撤去事業が進められて駅舎やホームは既に無く、
建設の許可表を見ると跡地には町立の複合施設が作られている様です。
江差線46
かつてのホームと、同じ場所の撤去後の様子です。
江差線51
駅舎跡から駅前の道付近を見ると
建物や商店が空き地の向かって建っており、
かつて駅がここにあったことが分かります。
江差線48
駅跡の建築現場の現場事務所の脇には
プレハブのバス待合室が置かれて湯ノ岱停留場が置かれていました。



江差線52
こちらは湯ノ岱駅から西へ4kmほど道道5号線を進んだ付近です。
道道と天野川に沿って走っていた江差線の天野川第一橋梁がこちらにあります。
鉄道の営業当時には絵になる人気撮影スポットだったそうです。
江差線53
橋梁の先で道道は右へとカーブをしていますが、
その傍らの草むらにに唐突に踏切の標識が立っている場所があります。
江差線54
その踏切跡へと入って左側に、かつて「天ノ川駅」と呼ばれた
鉄道駅を模した観光モニュメントがありました。
跡地の廃線脇には64キロの距離標もまだ残っています。

正式な鉄道駅ではありませんので駅メモにも収録はもちろんされていませんが、
江差線の歴史の中では忘れられないモニュメントでした。


江差線55
湯ノ岱駅からは7kmほど、天ノ川駅モニュメントからは3kmほどの
道道5号線の光景です。「宮越」の地名標識があり、
その先に青看板のある分岐があります。
江差線62
反対方向からみた分岐付近。
江差線56
分岐の真ん中の歩道にある函館バスの宮越停留場です。
江差線57
分岐した道を進むとすぐに左にカーブしており、
その先すぐに江差線の踏切跡があります。
江差線59
踏切の目の前に砂利の広場がありますが
こちらがかつての宮越駅の駅跡となります。
1964年(昭和39年)の国鉄江差線時代に新設された駅でした。
江差線58
駅舎とホームはご覧の場所にありました。
江差線60
駅前広場のすぐ南には天野川が流れており、
道には宮越橋という橋が架かっています。
江差線61
橋から見た駅跡方向の光景です。



江差線63
宮越駅跡から2km少々、道道5号線を北西へと進むと
次の駅への入口が見えてきます。
江差線64
こちらが道道から駅へと連絡する道です。
江差線69
反対方向から見た道道の駅入口付近。
江差線65
道の先のこちらがかつての江差線の桂岡駅の駅跡です。
1936年(昭和11年)に国鉄江差線が湯ノ岱駅から江差駅まで延伸した際に
設置された駅となります。
江差線67
営業当時の駅の様子です。
道道からの道路の正面に車掌車駅舎があり
その奥に単式のホームがありました。
江差線66
撤去後の駅跡地の様子です。
江差線68
道道5号線へと戻り、駅入口付近にある函館バスの桂岡停留場。



江差線70
桂岡駅からも道道5号線と並走していた線路は
河北小学校付近で右手へと反れて道道から離れます。
反れてしばらく進んだご覧の交差点付近が次の駅の駅跡となります。
江差線71
中須田駅の駅の跡地です。
江差線の江差延伸当時はこの駅はありませんでしたが、
付近の住民の要望で1948年(昭和23年)に仮乗降場として新設されました。
江差線72
営業当時の駅の様子です。
車掌車駅舎とプラットホームのみの駅でした。
江差線74
駅舎跡から南の木古内方面を見ると
道の反対側の廃線跡にまだレールが残っていました。
江差線75
踏切だったであろう場所には痕跡は全くありませんでしたので
道路の舗装は比較的新しい様です。
江差線73
その踏切跡から右手を見ると目の前に函館バスの豊田停留場が。
江差線76
西側から見た駅跡とバス停付近の様子です。



江差線77
こちらは函館バスの大留停留場。
道道5号線沿いで桂岡駅跡からは北西に3kmほど進んだ付近です。
江差線78
バス停の目の前はご覧のショッピングセンターがあります。
江差線79
ショッピングセンターの先の大留交差点で道道5号線は
直角にカーブする国道228号線に合流。
この交差点から江差までは国道と道道の重複区間となります。
江差線87
反対側から見た交差点付近の様子です。
この大留交差点の北に、かつての上ノ国駅がありました。
江差線80
こちらが駅の駅舎の入っている建物です。
駅は1936年(昭和11年)の国鉄江差線延伸時の設置ですが、
上ノ国町商工会館と駅の合築の建物として1992年(平成4年)に改築されています。
江差線81
その商工会の入口の東側を見ると
棟続きの平屋部分のガラス戸に「上ノ国駅」と書かれています。
こちらが駅の待合室部分への入口となります。
江差線82
東側に回りこんでの駅舎付近の光景です。
写真中央を線路が走っていて駅舎沿いにホームがありました。
江差線84
待合室のホーム側出口の外観です。
江差線85
出口からかつてホームのあった場所まで
細い舗装が伸びているのが分かります。
江差線83
かつての駅のホームはご覧の様にありました。
旅客で使うホームは駅舎側の単式1面1線のみでしたが、
貨物用ホームと引き上げ線がありましたので
相対式の様にホームが並んでいました。
江差線86
駅の江差方面側の廃線跡を塞ぐように建っている金物屋の店舗。
江差線の廃止が2014年(平成26年)の事ですから、
廃線跡に建つこの店はまだ出来て2年(註:2018年現在)程度と思われます。



江差線88
こちらは道道215号江差停車場線の南端の光景です。
JR江差線の江差駅と江差市中心街とを結び国道228号線まで至る
全長1.6kmほどのいわゆる停車場線となります。
この南端にかつての駅がありました。
江差線89
駅より南側は市道となりますが、
道道から市道に変わったところで道幅が狭くなっているのが分かります。
江差線91
停車場線に面した駅前広場です。
ロータリー状となっており中央部が駐車場スペースとなっています。
江差線92
江差駅の駅舎は広場の奥にご覧のように建っていました。
駅は1936年(昭和11年)に国鉄江差線の終着駅として開業。
1975年(昭和50年)に鉄筋コンクリートの駅舎に改築されていました。
江差線90
駅の跡地の様子です。
かつては貨物側線もある駅だったそうですが、晩年は単式1面1線の駅でした。
廃線から2年後の2016年(平成28年)の年末に解体作業が進み、
現在は駅跡地には市営住宅の建設が進んでいます。
江差線93
広場の北側にある旧江差駅資料展示館です。
駅の営業当時は「えさし おもてなしプラザ」として
観光案内と物産販売が行われていた建物です。
江差線94
展示館の中の様子です。
江差線95
掲示してあった営業当時の江差駅の駅舎の写真です。
江差線99
展示館の前にある函館バスの陣屋団地停留場。



以上でJR江差線の廃線区間については全駅となります。
江差線97
こちらはau 4G LTEでの電波エリアマップです。
基本的に道道5号線の区間は電波が届くので駅へのアクセスは問題がありません。

ただ一点、吉堀駅━神明駅間の吉堀峠を越える区間については
電波圏外の区間が続きます

道路に「携帯電話不感地帯」の標識が立っていたりするくらいですので
この区間についてはアクセスもできません。

特に神明駅がアクセスしづらいと思いますが、
駅跡の場所から湯ノ岱駅方面へ少し離れれば電波はつながりますので
落ち着いて道道5号線に戻り神明駅のエリアでアクセスして下さい。
最悪はレーダーなどを使えばリカバリーは容易です。



では既存の鉄道路線からレーダーを使って
江差線を取りに行く場合は一体どうなるのかというと、
結論から書くと営業中の鉄道上から江差線の全駅取得は不可能です。
江差線98
こちらは北海道新幹線の知内信号場、
駅メモではJR海峡線の廃駅である知内駅からのレーダー射程範囲です。
ご覧の通り射程12で中須田駅までは届くのが分かります。

なつめのスキルを使ってレーダー射程14にした場合でも
江差線で届くのは上ノ国駅まで
であり終点の江差駅だけ届きません。

しかし唯一レーダーで江差駅を取れる瞬間があるのですが、
それはイベント期間にレーダー射程が+2となっている場合です。
この時になつめを使うとレーダー射程が最大16まで延びます。
そして知内駅から射程16があるとギリギリ江差駅までレーダーが届くのです。


ちなみにですが道南いさりび鉄道の駅からの方が江差駅には距離的には近いのですが、
函館市電の路線にも近づいてしまう為レーダーでは市電の干渉で
江差線にはむしろ届かなくなる
という事情があります。
ですので江差駅へのレーダーについては
新幹線で青函トンネルを抜けたあたりが勝負となります。



そして実際に公共交通機関で江差駅跡まで行きたい、という場合は
函館バスの木古内江差線がJR江差線の代替バスとして運行しています。
江差線a01
こちらがそのバスの時刻表(註:2018年4月改正分)ですが
一日6往復となっており片道で所要時間一時間半、運賃1120円が必要となります。


ちなみにJR函館本線の八雲駅からも江差へとバスが出ているのですが、
こちらは片道二時間半が必要な上、一日2往復のみの運行で運賃片道1830円となります。
しかも江差駅以外はレーダー使用が必要となりますので
予算は5000円程度必要となるプランとなります。

せっかく江差まで行くのであれば
思い切って自由の利くレンタカーを利用する方が楽
だと思うのですが、
免許が無いなど車を使えない場合もありますので
事情に合せてプランを検討して下さい。


以上で江差線の廃線については全てです。

では。

留萌本線a62
さて、北海道の留萌本線の続きです。


その1(深川駅━留萌駅間)はこちら



留萌本線a63
留萌駅から先の留萌本線については
2016年(平成28年)12月を以て廃止されています。
ですので列車は走っていません。

この記事で紹介している留萌駅━増毛駅間については
廃線1ヶ月半前の2016年(平成28年)10月に写真を撮ったものです。
現在は駅や線路の撤去作業も進められており
ホームや駅舎などはなくなっている駅が多い点、
列車という交通手段では攻略できない点をご注意下さい。


留萌本線25
留萌駅からは2kmほど離れたこちらの
国道231号(日本海オロロンライン)から、
横道を下って日本海へと向かって行く道が駅への道となります。
留萌本線26
カーブの先に踏み切りが。
留萌本線27
この踏切の横にあるのがご覧の瀬越駅のホームです。
留萌本線28
ホームは1面1線の棒線無人駅です。
元々この駅は1926年(大正15年)に鉄道省留萠線の仮乗降場として
海水浴客への利便を目的にした季節営業で設置された臨時駅でした。
その後住民の利用が増えたことから正式な駅へと昇格をしています。
留萌本線29
ご覧の通りホームからは日本海が目前です。
…ちょっとこの日は列車が運休した強風で波が逆巻いてますが。
留萌本線a64
駅舎は無く、ホーム上にはご覧のコンクリート製の待合室が作られています。
元々は貨車駅舎が置かれていたそうですが、
海に近い為、塩で劣化が激しくコンクリートの待合室に作りかえらえたそうです。
留萌本線30
待合室の中には小さな椅子がポツリ。



留萌本線31
瀬越駅から国道231号線(オロロンライン)に沿って4kmほど南下すると
礼受駅前バス停(鉄道廃止後は礼受第1バス停)から北に150mほどの場所に
ご覧の駅への横道となる砂利の坂道があります。
留萌本線32
坂を上がると広場があり、ご覧の礼受駅の貨車駅舎があります。
留萌本線33
こちらがホーム。1面1線の棒線無人駅です。
1921年(大正10年)の留萌本線全通時に駅が設置されました。
駅名の由来は地名からで、アイヌ語で「レウケ・プ」(曲がっている所)が由来だそうです。
留萌本線34
ホームから日本海は見ての通り目前です。



留萌本線42
こちらは国道231号線(オロロンライン)沿いにある阿分漁港。
雷雨と強風でレンズが曇ってしまいましたが
礼受駅からは1.3kmほどの距離の場所です。
留萌本線35
漁港のすぐ北のあたりで再びオロロンラインから横道に。
留萌本線36
道を進むと右手に学校が見えてきます。
これは増毛町立阿分小学校ですが、2015年(平成27年)3月で廃校となっています。
留萌本線37
道を進み廃校の裏手に回りこんで進みます。
留萌本線38
するとその名も「学校踏切」の横に阿分駅がありました。
1963年(昭和38年)に国鉄留萠本線の駅として新設された駅だそうです。
駅名はアイヌ語の「アフン」(入り込んでいる)に由来するとの事です。
留萌本線39
こちらが駅のホーム。1両編成の列車長よりもホームが短く、
上りの留萌方面の列車が停車すると踏切いっぱいにはみ出てしまって
道を塞いでしまう状況となります。
また踏切の遮断機の内側にホームがあるので
列車停車中は駅から出られません。
留萌本線40
見ての通り小学校の真裏にホームと待合室があります。
留萌本線41
待合室の中を見ると、地元の自治会が
駅舎の内外の環境を保っている事が分かります。



阿分駅を過ぎると列車は短かいトンネルを抜けて
300mほど内陸部を走ります。
留萌本線43
北海道道94号線がオロロンラインから分岐してすぐのあたりで
ご覧の留萌本線と交わる踏切があります。
留萌本線44
その踏切の脇に信砂駅があります。
この駅も隣の阿分駅と同じく1963年(昭和38年)に新設された駅のようです。
駅名の由来となる地名は、
アイヌ語の「ヌプサペッ」(野を流れる川)、「ヌプ・サ」(原野・浜)など
諸説がある様子です。
留萌本線45
こちらがホームの様子。
1面1線の無人駅であり、待合室は工事用のプレハブが用いられています。



留萌本線46
次の駅は信砂駅からは0.8kmという近距離にあります。
オロロンラインの舎熊郵便局付近で
横道に入ると奥の行き止まりに貨車駅舎が見えるのが駅となります。
留萌本線47
舎熊駅
1921年(大正10年)の留萌本線全通時に設置された駅です。
アイヌ語で「イ・サッケ・クマ」(魚を干す竿)の転訛した「サックマ」が駅名の由来だそうです。
留萌本線48
ホームの様子。
1面1線の棒線無人駅で貨車駅舎となっています。
留萌本線49
ホームからは日本海が間近です。



留萌本線50
舎熊駅から1km半ほど南下した
オロロンラインから朱文別沢へと通じる横道の分岐点です。
留萌本線51
その道を進むとまもなく留萌本線の踏切に当たります。
留萌本線52
この踏切の脇に、次の朱文別駅があります。
1963年(昭和38年)に国鉄留萠本線に新設追加された駅です。
駅名は地名からで、アイヌ語の「シュフンペッ」(ウグイ・川)に由来するそうです。
留萌本線53
こちらがホームの様子。
単式1面1線の無人駅です。
留萌本線54
ホーム横の待合室の様子。
留萌本線55
待合室の中はご覧の通りです。



留萌本線56
朱文別駅からは1.3kmほど西の位置付近で
オロロンラインと箸別川が交わる橋があります。
橋から南に、海岸から少し内陸に入ったところに駅前の広場があり
ご覧の築堤を登る階段が設けられています。
留萌本線57
こちらが箸別駅です。
1963年(昭和38年)に新設追加された駅のひとつです。
単式1面1線の棒線無人駅となっています。
駅名の由来の地名は、アイヌ語の「ハシ・ペッ」(柴木の川)がなまったものだそうです。
留萌本線58
ホームから見返してみると日本海は至近に見え、
駅前の広場の右すぐには箸別川が流れていて
広場前の道にも川に橋が架かっているのが分かります。
留萌本線60
ホームから川の方を見ると
駅のすぐそばにも架橋されていました。
留萌本線59
駅の待合室をなめこんだ駅の全景。
留萌本線61
改めてホームから駅前の風景を。
砂利の駅前広場の向こうには、駅へと通じる内陸部に入る市道、
建物の奥には日本海が見え、海岸線には国道が走っています。

ちなみに廃線後のこの駅前の広場は
現在は養殖業者の私有地となっており立ち入り禁止とされています。
ですので駅跡へはは入れない状態となっています。




留萌本線62
そしてこちらが留萌本線の終着駅である増毛駅です。
1921年(大正10年)に留萌本線が全通して以来の終着駅です。
駅名の由来である地名はアイヌ語の「マシ・ケ(カモメ・処)」からだそうです。
ホームは1面1線のみで、列車はスタフ(通行証)を持ってそのまま折り返して行きます。 留萌本線63
ホームから駅舎の方へ向かうと。
留萌本線64
こちらが駅舎となります。
「留萌本線 終着駅」の看板が掲示されています。
留萌本線65
駅舎の目の前のある留萌本線の終端の車止め。
留萌本線66
反対側からみた駅舎とホームの全景です。
留萌本線69
かつては貨物の側線が分岐して転車台もあったという駅構内は
現在ではホームの1線のみが棒線状に残されて
広大な空き地となっています。
留萌本線67
駅の外側から見た駅舎。
留萌本線68
待合室への駅舎の入口。
木製の駅名標が掲げられています。
留萌本線70
こちらが駅の目の前にある風待食堂。
食堂とありますが食堂ではなく観光案内所です。

高倉健主演の映画「駅 STATION」(降旗康男監督・1981年東宝)で
駅前の商店が食堂に改装されて撮影されたもので、
観光名所として映画の撮影セットがそのまま残されて
観光案内所としてグッズや増毛駅入場券の販売などがされているそうです。
開くのがご覧の通り9時半からなので、
7時代の始発で到着すると開いていませんのであしからず。



以上で留萌本線の全駅となります。
留萌本線71
こちらはau 4G LTEでの留萌本線沿線の電波エリアマップです。
留萌駅━増毛駅間の廃線区間についても
電波状況は全線にわたって良好ですので
実際に現地で駅へのアクセスに困る事は無いと思われます。



さて、ご承知の通り、
留萌本線の留萌駅━増毛駅間については
2016年(平成28年)12月4日を以て廃止
となっています。
現在も駅メモの留萌本線には駅が登録されていますが
全て廃駅扱いとなっており、実際の列車も当然ながら走っていません。
ですので列車に乗っての取得はできないという事となります。

鉄道が廃止された現在、実際にこの区間を現地に行って取るには
まずはバス利用が一番現実的な方法となるでしょう。
留萌駅━増毛駅間はほぼ国道231号線、通称オロロンラインが並行して走っており、
沿岸バスの留萌別苅線という路線がオロロンライン上を運行しています。
留萌駅と増毛駅にはそれぞれ駅前の停留場がありますし、
途中の全ての駅にも至近にバス停があります。
朝7時台から夕方18時台までおよそ2時間に1本ペースでバスが運行していますので
留萌駅━増毛駅間の攻略方法としては現実的でしょう。
留萌本線73
こちら沿岸バス・留萌別苅線の増毛駅停留場。
留萌本線74
信砂駅近くの彦部第二停留場。
留萌本線75
礼受駅前停留場(現・礼受第1停留場)。


上の写真を撮った日には夜明け前から雷鳴が轟き、
オロロンラインを歩くと強風で体が持っていかれそうでした。
実際朝の列車を最後に留萌本線は強風で運休していましたし。
留萌本線76
私は増毛駅から4時間かけて留萌駅まで歩いたので
駅到着後に運休を知りましたが、沿岸バスは普通に定期運行していて
何度も追い抜かれたりすれ違いました。
このバス路線は列車廃止後は貴重な住民の足ですので
おいそれとは無くならないかと思います。
廃止後の実質的な代行バスですので、
公共交通機関で攻略する方はこのバスが最初の選択枝となると思います。


そしてその1でも述べましたが、JR北海道は深川駅━留萌駅間の留萌本線も廃止する意向であり、
実際に沿線自治体に廃止したい旨を表明伝達するなど
廃線へ向けての調整が具体化しています。

2020年(平成32年)を目処に廃止したい意向の様子ですが、
これまでの北海道で廃止された路線の動向を見る限り
高い確率で廃止は現実のものになりそうです。


留萌本線72
こちらは留萌駅からレーダーを飛ばした場合の
ボロノイ図上での射程距離図です。
見れば分かりますが留萌駅から射程12で増毛駅までレーダーが届きます
お手軽に済ませたいのであれば、まだ列車が運行している留萌駅まで行き
レーダーを飛ばせば留萌本線は廃止区間も含めて攻略ができる
でしょう。
しかしこの手法が使えるのはおそらく2020年までだと思われます。

留萌本線が全廃となった場合、
おそらく代替バスも留萌を境に分割されそうな気がしますし、
実際に現地まで行くにはなかなかの労力と時間が掛かりそうです。
高速バスで取りに行く方法なども考えられますが、
既存路線からレーダーでは取れなくなりますので
レンタカーなどの選択肢が現実的なものとなりそうです。



私は列車が走っているうちに乗っておきたい、と
区間廃止前に行ってきましたが、「廃止直前」のローカル線を見たのは初めてで
ずぶ濡れになりながらも正直いろいろと楽しい体験でした。
以上の情報が参考になれば幸いです。


では。

↑このページのトップヘ