
引き続きで宗谷本線の記事です。
その1(旭川駅━比布駅)はこちら。
その2(比布駅━士別駅)はこちら。
その3(士別駅━名寄駅)はこちら。
その4(名寄駅━美深駅)はこちら。
その5(美深駅━音威子府深駅)はこちら。
音威子府駅から先の宗谷本線は天塩川の右岸を併走して西進しています。
川を挟んだ反対側の左岸には国道40号線が同じく川と併走をしていおり、
およそ70kmに渡って鉄道、国道、河川が併走する事となります。

音威子府駅から西へ5kmほどの距離の国道40号線から
筬島大橋という橋が天塩川を渡って北へと分岐しています。
この橋が国道から駅への入口となっており、およそ700mほど道を進むと
ご覧の交差点へと差し掛かります。

交差点を反対の西側から。

この交差点の南東角にはご覧の建物があり、入口には
「筬島農地改良センター」と書かれた跡がありました。

この農地改良センターの脇を抜けて交差点南側の道の先には
旧筬島小学校の木造校舎があります。現在はアイヌ出身の木彫彫刻家の
砂澤ビッキ氏の記念館となっています。

そして交差点の北側が駅への連絡道路となっており、
砂利道の突き当たりに駅舎があるのが見えます。

こちらが筬島駅の駅舎の外観です。
1922年(大正11年)11月に鉄道省天塩線の延伸開業によって設置された駅で、
かつては木造駅舎が建てられていました。
1986年(昭和61年)に駅が無人化された後に木造駅舎は解体された様で
代わりに貨車駅舎が旧来駅舎の基礎跡の上に置かれました。
2012年(平成24年)に貨車駅舎に金属サイディングが貼られてリニューアルされています。

駅舎の中の様子です。貨車駅舎ですので中はご覧の広さですが
中は綺麗に手入れがされています。

駅舎の置かれている場所の地面の基礎跡。

こちらが駅のホームとなります。
単式ホーム1面1線の棒線無人駅となります。

ホームはご覧の通り土盛り砂利敷きのものです。
かつては線路の反対側にはもう1面島式ホームがあったそうで
一番外側は貨物用副本線として木材の積み出しが行われていたのだそうです。

筬島駅は音威子府村大字物満内小字筬島に所在していますが、
大字物満内の2015年(平成27年)の国勢調査では世帯数7、人口10名となっていて
いわば廃村寸前の状態となっています。
その為2016年(平成28年)にはJR北海道より廃止駅の候補に挙げられており、
2021年(令和3年)4月からは駅は自治体管理へと移行となっています。

ホーム西側に作られた花壇には「花駅長」の文字が。

こちらは国道40号線から分岐して佐久橋で天塩川を渡る
道道218号板谷佐久停車場線です。国道からおよそ500mほどで
南側からご覧の交差点となり東側の駅へと通じています。

反対の北側から見た交差点。この交差点の北側は
道道541号問寒別佐久停車場線という別の道道です。

駅側の東から見た交差点。二つの道道がこちらの交差点で合流しており
駅までは重複区間となっています。

交差点から駅への光景。

こちらが佐久駅の駅舎外観となります。
1922年(大正11年)11月の鉄道省天塩線延伸によって開設された駅で、
ご覧の駅舎は1990年(平成2年)に改築されたものです。

駅舎の中の様子です。「佐久ふるさと伝承館」と入口に書かれている様に
地元の中川町が建てた駅舎は地区の公共施設としての役割もあり、
待合のベンチの周りには町の様々な資料品が展示されています。

生活品の展示された棚の上の壁には
切り出された材木を運ぶ馬橇(そり)の絵が。

待合室左手にはハッカの蒸留装置や馬そりの実物が展示されていました。

ホームへと出る改札付近の光景。

こちらがホームの様子です。相対式ホーム2面2線の駅となっており、
無人駅ですが列車交換の可能な駅となっています。

西側の駅舎のあるこちらが1番線で、下り線の稚内方面行きホームとなっています。

ホーム南側の旭川方寄りに駅舎はあり、
その先の南端に構内踏切が設置されています。

二つのホームを連絡する構内踏切。
線路部分にだけ板が張られている簡素なものですが、
この踏切は特急列車も通過する踏切です。

駅の東側にある2番線ホームです。
上り線旭川方面行きホームとなっています。

こちらの2番線ホームは構造物がホーム上には無く
ご覧の通り土盛りのホームがあるのみとなっています。

2番線ホームの東側には行き止まりの車庫のある側線があります。
これはかつては副本線だったのだそうで、外側にさらに側線があったのだそうです。

こちらは道道438号天塩中川停車場線と道道541号問寒別佐久停車場線が
駅前のおよそ170mほどを東西に走る重用区間の光景です。

駅から東側の交差点で二つの道道は合流しており、
北側の道道438号天塩中川停車場線は天塩川を渡って国道40号線へと連絡、
南の道道541号問寒別佐久停車場線は宗谷本線と併走し隣の佐久駅前までつながっています。

二つの停車場線の起点となる駅前広場の入口ゲート。

ゲート前では駅前広場に接して南北に町道が走っています。

駅前広場の様子です。二つの道道の重用区間の東の終端に位置しており、
入口から駅舎の正面への部分は舗装がされていますが
左右の敷地は砂利敷きとなっています。

町道へと出る広場の入口脇にある中川町のガイドマップ。

駅前広場のゲートを駅舎側から見た光景です。

こちらが広場の東側にある天塩中川駅の駅舎の外観となります。
駅は1922年(大正11年)11月に鉄道省天塩線が
音威子府駅から当駅まで延伸された際に誉平(ぽんぴら)駅として設置されました。
現在の駅名となったのは国鉄となった後の1951年(昭和26年)のこととなります。

今の駅舎は1953年(昭和28年)に建てられた木造駅舎で、
以前は改修によってサイディングの貼られた味気無い外観の建物でした。
この駅舎が地元の中川町によって2014年(平成26年)に駅舎改修が行われており、
町有林のトドマツの間伐材を燻煙防腐処理して下見張りという
建築当時の姿へとレトロ回帰されて今の姿となっています。

そして駅舎の左の前、広場の南側にはこちらの建物があります。
この建物はかつての保線事務所で駅の出札業務もこちらで行っていました。
しかし2016年(平成28年)に天塩中川駅での工務社員の配置が廃止されたことで
保線員もこちらには詰めておらず現在は使われていません。

駅舎の中の様子です。2014年(平成26年)の駅舎改修では
建物の所有がJR北海道から中川町へと移管しており、
待合室のベンチや扉、窓枠などにも町有林のトドマツが使われています。

広場側の出入口には雪国らしく風除室が。

かつて駅務の事務所のあったスペースは交流プラザとして
町の施設となっています。かつての券売窓口の場所には
窓口を模したカウンターも作られています。

ホーム側の出入口付近。

こちらが駅のホームの様子です。
相対式ホーム2面2線の駅で列車交換が可能となっています。
駅舎のある東側のこちらが1番線ホームで上下主本線となっており、
列車交換が無い場合は基本的に上り列車も下り列車もこちらの1番線で発着を行っています。

ホーム側から見た駅舎の外観。
作られてからまだ10年経っていません(註:2021年現在)が
70年前の駅舎を再現しているのでレトロな佇まいです。

北側の稚内方のホームの様子です。
駅舎北側に貨物ヤードがあったのは近辺の他駅と一緒で
現在でもその跡を見ることができます。

駅舎のホーム側の屋根には雪止めが設けられていますが、
良くみる金具が点在しているのでは無く、棒でバリケードのように作られており
ホーム側への雪の落下を防いでいます。

南側の旭川方のホームの光景。
反対側のホームと連絡をしている構内踏切は南端の先に設けられています。

こちらがホーム同士を連絡している構内踏切です。

西側のホームは1番線ホームに比べて有効長が短い為、
踏切からはご覧の通りホーム入口のスロープが離れているので
通路の石畳が敷かれています。

こちらが西側にある副本線の2番線ホームです。
列車の出発信号機がこちらは上り列車側にしか無いので
構造的に上り列車しか停車することができません。

ですので列車交換時のすれ違いの時に上り列車が使用する、と考えるところですが
近年はこの天塩中川駅での列車交換は設定されておらずその必要がありません。
なので一部の上り列車が使用するのみのホームとなっています。

ホームの外側にはかつては引き上げ線があった為、土地に空間があります。
待合室やベンチなどはホームに作られておらずシンプルなホームとなっています。

2番線から見た駅舎。
この駅は特急停車駅で1番線には特急が止まりますが、
有効長の関係から特急が増結された場合には一部ドアカットがあります。

こちらは道道541号問寒別佐久停車場線の中川町字歌内付近の光景です。
佐久駅の駅前から北にほぼ宗谷本線と併走している道路ですが
8.4kmほど進んだところで次の駅の駅前へと辿り着きます。

反対の北側から見た、駅前の交差点付近。

駅から正面には町道が伸びており、天塩川を渡って
およそ1.4kmほどで国道40号線へと連絡をしています。

切り返して町道から駅方向へ。
道道の先に砂利敷きの駅への道が伸びています。

駅へと連絡する道を東へ。

砂利道が分岐する右手に駅が見えます。
ちなみに分岐の左手も駅の敷地の様でバラスト(砂利)が集積されていました。

こちらが歌内駅の駅の外観です。1923年(大正12年)11月の
国鉄天塩線の延伸によって宇戸内(うとない)駅として開業をしました。
1951年(昭和26年)7月に現在の歌内駅へと改名されています。

駅前はご覧の砂利道のつきあたりが広場の代わりとなっているもので
車の転回程度は可能となっています。

駅は1984年(昭和59年)に宗谷本線のCTC導入によって無人駅となっており、
その後昭和から平成へと変わったあたりで木造駅舎が解体されています。
現在のヨ3500車掌車を改造した貨車駅舎は解体された木造駅舎の
基礎の上に置かれたもので、現在でもコンクリート基礎が残っています。

駅舎の中の様子です。いわゆるダルマ駅と呼ばれる貨車駅舎なので
中はご覧のこじんまりとした部屋にベンチが置かれているものとなります。

壁には増設された窓があり、奥にはトイレも増設されています。
時刻表を見ると一日上下3本づつとなっていました。

ホーム側から見た駅舎の様子です。
貨車駅舎の置かれた場所を見ると、残った基礎から
元の木造駅舎がそれなりの大きさの建物であったことが分かります。

駅のホームの様子です。単式ホーム1面1線の棒線無人駅で
土盛り砂利敷きのホームとなっています。

かつては相対式2面2線の駅だったのだそうで、
現在のホームの線路反対側の東にもう1面の単式ホームがあったそうです。
また旧駅舎の基礎の北側には貨物ヤードの引込み線のあったのだそうです。

駅のある中川町字歌内の2015年(平成27年)の国勢調査データーでは
世帯数8、人口18名となっています。そのためJRの調査で
1日平均の乗降客数が1名以下となっており、何度か駅廃止の俎上へと上がっていました。
そのため2020年(令和3年)4月からは中川町へと駅の維持管理が移管されています。

こちらは道道583号上問寒問寒別停車場線の終点近くの光景です。
隣の歌内駅の前を通る道道541号問寒別佐久停車場線は山側に迂回するルートを取り
南北に走るこの道道の、ご覧の交差点から700mほど北に合流をしています。

交差点の西側は道道395号問寒別停車場下国府線という別の道道で、
宗谷本線と天塩川を跨いで国道40号線へと連絡をしています。

交差点東側は町道となっており、
二つの道道がこの交差点で合流をして南側の駅へと向かっています。
町道から交差点の向こう側の道道395号線沿いは問寒別の集落で
この近辺では比較的大きな集落となっています。

交差点から駅までは二つの道道の重用区間で
舗装が途切れると砂利敷きの駅前広場となります。

駅前広場の様子です。広場の一角には北海道ではよく見るD型倉庫が。

砂利道と草地で境界が分かりづらいですが、駅前広場の敷地は
どうやらこの広めの空間の一角のみの様です。

そして広場の南側にあるのがこちらの問寒別駅の駅舎です。
1923年(大正12年)11月に鉄道省天塩線の延伸開業で設置された駅で、
木造駅舎の置かれた有人駅でしたが1986年(昭和61年)に無人化されると
すぐに駅舎も解体されてヨ3500形車掌車を元とした貨車駅舎が設置されました。

旧駅舎の基礎跡の上に現在の貨車駅舎が置かれているのは他の駅と同様で
ご覧の通り今でもコンクリートの基礎跡を確認する事ができます。

駅舎の中の様子です。貨車駅舎のダルマ駅ですので
中は他の貨車駅舎と同様にベンチが置かれるのみとなっています。
壁には問寒別駅の歴史が掲示されるなどしており手入れと管理の行き届いた状態です。

ホーム側から見た駅舎。2015年(平成27年)に幌延町によって
貨車駅舎の外壁に鋼製サイディングが張られてリニューアルされており
ダルマ駅ながら綺麗な外観となっています。

こちらがホームの様子です。単式ホーム1面1線の棒線無人駅です。
この駅もかつては相対式2面2線ホームと、
駅舎北側に貨物引込み線のある駅だったそうです。

土盛り砂利敷きのホームの線路の反対側には鉄道防雪林が広がっています。
2015年(平成27年)国勢調査では問寒別駅のある幌延町字問寒別の世帯数は113、
人口は224名となっています。駅前に有る程度の市街地が形成されていることからも
近辺では比較的大きな集落であることが分かります。

しかしながら駅前に家があるこの駅でも一日平均乗降客数は3名以下であり
JR北海道より2020年度での廃止候補の駅の一つに挙げられました。
これに対して地元の幌延町は「市街地がある」事を理由として
2021年4月以降当駅施設を自治体管理へと移行する事を了承しています。

こちらは問寒別駅から西へ2.1kmほどに位置する町道です。
この付近は河川に阻まれるなどして行き止まりの道が多く、
ご覧の道も問寒別駅と集落側からのみたどり着ける町道となります。

切り返して踏切と反対側の北側を見るとご覧の光景で
周辺に建物は見あたりません。

町道と宗谷本線の交わる踏切は「中問寒別糠南線踏切」という名前で
踏切の東側を見るとご覧の通りホームがあるのが見えます。

踏切の南側に伸びている道は天塩川支流の問寒別川に突き当たり
砂利道となって行き止まりとなっています。
旧川の三日月湖が残るこの付近は問寒別川が天塩川に合流する付近で
釣り師にとってはイトウの名釣り場なのだそうです。

切り返して踏切方面へと戻ります。
踏切南側には線路脇には伸びる砂利道が。

砂利道を進むとすぐ左手に駅のホームがあります。

こちらが糠南駅の駅の全景です。駅は1955年(昭和30年)に
旭川鉄道管理局設定の糠南仮乗降場として設置されたもので
国鉄分割民営化となった1987年(昭和62年)に正式駅へと昇格しています。

駅前の砂利道からホームまでは鉄道用地内の草地であり、
ホームのスロープまでけもの道状に道があります。
この線路脇の草地にはかつては木造の待合室があったそうですが
1987年(昭和62年)の台風12号(通過時は温帯低気圧)で崩壊したそうです。

こちらが駅のホームの様子です。単式ホーム1面1線の棒線無人駅です。
木造ホームで有効長が1両分といういわゆる朝礼台と呼ばれるタイプのホームとなります。

東側から見た駅ホームの光景。奥が稚内方となります。

駅の周辺を見渡すとご覧の通りの光景で周囲は牧草地となっていて、
近辺では牧草を丸めてラッピングした牧草ロールを見ることができます。

そしてホームの稚内方の西端の入口近くに設けられているのが
この駅を全国的に有名にしているこちらのヨド物置の待合室です。
前述の台風で駅の木造待合室が崩壊した後に、地元の有志が設置したもので
普通の物置の側面に窓が設けられています。

ホームから張り出して増設された木製デッキの上に待合室が置かれていますが、
明らかにホームと待合室前のデッキの色が違うのは、JR北海道管理のホームと
町管理の待合室ではメンテナンスの頻度が違うからでしょうか。

待合室のデッキの構造と物置の置かれ方から、
元々は大引き(ホームから土台へと架けられた横梁)の上に
一枚張りで床板が張られていた様子です。

しかし恐らくは老朽化の為床板が脆くなって踏み抜く危険が出た為、
後から上張りで床板が増し貼りされて補強された様です。
予算の都合なのでしょうが、物置の前だけ渡し板のように補強した通路が
この駅を管理する予算や人員の不足を物語っています。
(転落の危険を残す補修は意味が無いので普通はやらないのです。)

待合室に物置を転用したのも安価に設置できるからなのだそうですが、
それが逆にこの駅を有名にした上に毎年イベントが開かれて
愛好家の訪問が絶えない観光資源にまでなったのですから分からないものです。

待合室の中はご覧の通りで普通の物置の壁に時刻表などが掲示されています。
ベンチの代わりに置かれたビールケースが2つと
除雪の為のスコップやスノーダンプがありました。

ホームから踏切への光景です。
糠南駅は問寒別駅と同じ幌延町字問寒別にある為、
駅周辺だけの国勢調査資料はありませんが
新聞記事などによると糠南駅周辺には酪農を廃業した民家が1件あるのみで
JRの調査でもここ10年以上地元の駅利用者は確認されていません。

ですのでこれまでも何度も駅は廃止の候補として挙げられてきました。
しかし地元の幌延町が「秘境駅等鉄道系資産によるまちおこしの象徴的存在であり
民間有志による大規模イベントも開催されている」として存続の意向を示し、
2021年4月以降は町の駅施設管理による駅存続へと移行されています。
ただ、待合室のあるデッキの現状を見ると決して前途は安楽では無いでしょう。

こちらは道道302号雄信内停車場線の光景です。
道の傍らには数軒の廃屋が点在しています。

この道は停車場線のの曲がり角から南西に300mほどで
道道256号豊富遠別線と合流しており、重用区間となって
南1.2kmほど先の国道40号線へと連絡をしている道路です。

その停車場線がカーブで北へと曲がり、80mほど進むと駅舎につきあたります。

こちらが雄信内駅の駅舎の外観です。
1925年(大正14年)7月に鉄道省天塩南線の延伸で開業した駅で、
現在の駅舎は1953年(昭和28年)に建てられたものとなります。

駅舎前の南側には駅前広場となる砂利敷きの敷地が広がっています。
停車場線の終端の広場は広さは十分にあるので車の転回や駐車も可能です。

駅舎の中の様子です。1984年(昭和59年)までは
旅客窓口が営業していたので当時の窓口がそのまま残っています。
コンクリート土間の待合室の東側には木製ベンチが設けられています。

ホーム側の駅舎出入口付近の様子です。
扉の脇には木製の駅名標が掛けられています。

駅のホームの様子です。相対式2面2線の駅となっており列車交換が可能です。
駅舎のある南側のこちらのホームが下り稚内方面行きホームの1番線です。

ホーム西端の稚内方の光景。
かつての貨物引き上げ線の線路も残っているのが見えます。

駅舎はホームの東端側の旭川方に建てられています。
東の先端部には隣のホームとの連絡をする構内踏切が設置されています。

構内踏切の様子です。線路部分にだけ板の張られた簡素なものとなっています。

北側にある上り線旭川方面行きの2番線ホームです。
土盛り砂利敷きのホームのみで上屋などはありません。

ホームの更に北側にはかつては副本線の線路があったそうですが
平成に入ってまもなむ撤去されています。

旅客扱いの駅員が廃止された後も閉塞を扱う運転要員は詰めていましたが
1986年(昭和61年)には宗谷本線のCTC化によって
それも廃されて完全に無人駅となります。
駅舎の駅事務室だったスペースは冬季の保線要員の詰所として使われているそうです。

住民基本台帳によると雄信内駅のある幌延町字雄興の
2017年(平成29年)の世帯数は2、人口は5名となっています。
駅周辺も廃屋ばかりで人の姿は無く駅周辺は「廃村」と呼ばれる状態となっています。

なので駅についてもJR北海道から廃止の提案があったものの、
地元の幌延町が「宗谷本線の歴史を伝える国鉄型木造駅舎の
希少性について考究が必要」として存続を希望。
2021年(令和3年)4月より駅施設を自治体維持管理へと移行しています。
旭川から宗谷本線の駅を順に追って、やっと上川管内から宗谷管内へと入りました。
まだまだ線路は100km近く続いていますので続きはその7にて書きます。
では。